Cavalry
クォーダへ侵攻を続けるラウル第二軍第一師団の司令部は、師団長バイル・ビュイックの方針によって、えらくとっちらかっていた。
所用でここへ訪れたローゼなど、あまりの乱雑さに気が遠くなり、用事を忘れてきびすを返そうとしたくらいである。
「おいローゼ、黙って帰るこたぁねえだろう。何の用だ」
と、魔窟(にしかローゼには見えない)の奥から声がして、バイルがでかい図体を現した。
「どこにいたの、バイル、あなた」
「そこで司令書読んでた」
と司令部の一角を占める書類の山を指差して言う。
その息が少々酒臭い。書面を読むのと、隠れて酒を飲むのとどちらが主目的だったものか疑わしい。
ローゼは顔をしかめたが、口に出して文句は言わなかった。
「副師団長や事務官はどちら?」
「出払ってる。うちのに用か」
「いえ細君がいらっしゃらないなら結構よ。失礼してもいいかしら?」
ローゼは司令部の天幕へ足を踏み入れた。
書類の山だの、脱ぎっぱなしの制服だの、試作品と思しき前装式の燧石銃に作りかけの鉛玉だの、ゴミの山なのか何だかよくわからない。が、バイル曰く、彼にはこれが一番効率的な状態なのだそうだ。
「理解不能だわ」
「で、何の用なんだ」
とバイルは重ねて聞いたが、ローゼは言いにくそうにして答えようとしない。
「――もしかして俺が恋しくなって忍んできてくれたんなら」
「違います」
「あっそ」
さすがにそこまで美味い話ではなかった。
バイルはローゼが切り出すのを辛抱強く待った。この程度の女の気まぐれにいちいち腹を立てているようでは大人の男はやっていられない。
「バイル、頼みがあるのだけど――」
ローゼは、そこまではなんとか言葉にしたが、逡巡はなかなか済む気配がない。
「まあローゼ、座れよ、その辺にでも」
ついに見かねてバイルは椅子を勧め、自分も差し向かいに腰を据えた。
手近なところに簡易なチェス卓があった。それを引き寄せ、ローゼとの間に置いた。
「一戦どうだ?」
「私は遊びに来たわけじゃ」
「気分転換くらいにゃなるだろう」
気分が変われば話す決心も着くかもしれない。バイルなりに気を遣ったつもりらしい。
「――そうね」
ローゼも理解した。
ローゼが白、バイルが黒の手番である。チェスは常に白が先攻する。
序盤の動き出しを見て、バイルにはローゼの大方の腕前がわかった。
(強いな――)
攻め手が大胆だ。ときどきこちらがどきりとするようなチェックを仕掛けてくる。
バイルがキングを逃がしたところを追撃するためのナイトがきちんと配置されている。惜しむらくは、バイルには逃げる必要などなく、キングを守るための駒がピンされずに生きていることを見逃している点。
バイルはビショップを動かして、ローゼのクイーンの攻撃を遮った。
「さすがに大局を見る目はあなたの方が上ね、バイル」
と、ローゼは素直に認めた。
「可愛いこと言いやがって」
バイルは卓から視線を上げずに言った。こういう盤面を作れる女をモノにしたいと思う。
バイルの妻も、第一師団の副師団長にして彼の参謀を務めるほどの知略に長けた女性である。そしてバイルは欲しいものを一つで我慢できるたちではない。目の前にあるならあるだけ欲しい。
二手三手先を読み合う複雑な応酬が幾度も続いた。
やがて、
(む――)
とバイルは手応えを感じた。
まずは直感。
それから直感を裏付けるために盤面をつぶさに確かめる。
「ローゼ」
「何か?」
「賭けをしねえか」
出し抜けに言った。
「軍内での賭博は――」
「金を賭けるわけじゃねえ。つまり、まあ、よくある話だ。負けた方は勝った方の言うことを聞くってやつよ。おまえが勝ったら、その言いにくそうにしてる頼み事とやらを無条件で聞いてやる」
「あなたの望みは?」
「聞くまでもあるまい」
バイルは遠慮なく好色な視線をローゼへ注いだ。「やらせろ」と目は口ほどに物を言っている。
ローゼは、バイルの目を真っ直ぐにらみ返した。たじろがなかった。
「――受けて立ちましょう」
「おまえの望みは?」
「私が勝ってから教えるわ」
「は。まあいい、それじゃ」
バイルは黒のナイトへ手を伸ばした。
それをローゼのキングの正面へ力強く置く。
「来い! ローゼ」
バイルの直感は、この一戦がすでに最終盤に入っていると告げていた。
その勘は正しい。
次のローゼの一手で全てが決まる局面をこの男は作り上げた。
ローゼはキングの前に置かれた黒のナイトを見つめ、長考した。
(嫌な位置に騎兵を打たれた――)
と思った。
ローゼのキングは身動きが取れなくなった。バイルのナイトは、攻撃こそ仕掛けてきていないものの、他の駒と合わせてキングの逃げ道を全て塞いでしまっている。
このナイトを排除したい。幸いキングの隣にあるポーンが、バイルのナイトを攻撃範囲に入れている。次の手で倒せる。倒せるが――
(バイルの手のひらの上で転がされているようにも思えるわ)
誘われているのでは?
(考えなさい。バイルには何が見えていて、私には見えていないのか)
もしここで自分がバイルの思考に追いつけなければ、きっと負けて、いいように弄ばれるに違いない。それもおそらく今すぐ、この場で。夜まで待つとか、そういう気遣いのできる男ではあるまい。
「―――」
ローゼは緊張をほぐそうと身じろぎした。
白い制服に包まれ、ぴっちり閉じている両脚が卓の下でわずかにすり合わされるのを、バイルはいやらしい目つきでねめ回して隠そうともしない。
(ナイトを殺せ、ローゼ。抱いてやる)
その騎兵は囮だ。
ローゼがナイトを倒した瞬間に、バイルは黒のクイーンでローゼをチェックメイトできる。クイーンはビショップに守られており、チェックを止める手立てはない。
(その脚を開いてみせろ、俺の目の前で)
恥ずかしいか。
本当は期待して濡らしてるんじゃないのか。
おまえも他の女と同じように、俺のナニをくわえ込んで好きだ好きだって締め付けてくるんだろう。
と脳裏で思うさまローゼを陵辱した。
ローゼは刺すようなバイルの視線を浴びながら、おもむろに右手をチェス盤の上へかざした。
(ナイトを殺せ)
とバイルは心の内でうなった。
が、ローゼが手を伸ばしたのはポーンではなく、キングの対角線上に位置する白のナイトだった。
「この私が、騎兵の戦いで遅れを取るわけにはいかないのよ!」
ローゼはナイトで黒のビショップを攻撃した。
それはバイルのクイーンを守る、この盤面の戦略上最も重要な駒で、ローゼがメイトを逃れるにはここを取るより他になかった。彼女はちゃんとバイルの頭脳に追い縋ってきた。
「どう?」
と挑むように身を乗り出してくるローゼの険しい顔と、バイルはしばし向かい合い、やがてうつむき、肩を揺らして笑い出した。
「生意気な小娘が!」
「なんですって」
「可愛い女だ」
バイルは自らのキングへ指を乗せ、とんと小突いて盤上に倒した。投了である。
ほっ、とローゼが息をつく。
バイルは肩をすくめた。
「残念だ、また抱けなかった」
とぼやいている割に、バイルの表情はどこか満足そうであった。
「ったく何かと思えば色気のねえ頼み事だよ、第一師団の行軍を見学させてくれとはな」
クォーダへ進軍を再開したラウル第二軍第一師団、師団長バイル・ビュイックのかたわらに見慣れぬ青年士官が付き添っている。
それが、豊かな髪を結って隠し、いつもの化粧を控えた第三師団長コンラート・ローゼであるとは誰も気付かなかった。
「せめてもうちょっとこうなんというか、色っぽい格好くらいしてもだな――」
ぶつくさ言いながらも、バイルは部下たちへ明確な指示を出し、一万の兵を一糸乱れないように動かしている。
ローゼはバイルとともに司令部のある後方から整然とした兵たちの姿を眺め、うっとりと目を細めた。
「素晴らしい用兵だわ、バイル」
「そりゃどうも」
バイルの横で彼の指揮を食い入るように見ながら、ローゼは熱心に意見を述べ、質問した。バイルはこの優秀な生徒に億劫がらず付き合ってやった。知りたいと言われたことにはみな簡潔に答えた。
(乾いた土地が水を一滴残らず吸い尽くすようなもんだな)
「我が公国もいずれはこんな大軍を――」
とローゼは独りごちている。
バイルは面と向かっては聞かなかったが、ローゼがかなり野心的なことを考えているのはわかった。上層部へ知れたら彼女の立場が危うくなってもおかしくないようなことだ。
「バイル、こんなこと、よほど内密にでなければ頼めないことよ。あなたがあのとき賭けの話を持ち出してくれて、正直なところ助かったわ」
「別に俺は例の賭けがなくたって、秘密は守れる男だったぜ。おまえとの約束なら尚更な」
「あなたに借りなんて作ったら、見返りに何をさせられることか」
「そのお上品な脚を開かせてたさ。ちっ!」
こんなことなら、賭けの話なんか持ち出さなけりゃよかった。
ため息をついたバイルはローゼの尻へ手を伸ばそうとして、その手をローゼにきつくつねり上げられ、
「うへ」
と情けない声を上げた。
(了)