愛の手解き
「ったくよお、部屋の掃除なんか普通は従者や侍女にでもやらせるもんだろうが、国王陛下」
と、朝からカシスの自室の掃除を手伝わされているエスクは不満げに口をとがらせっぱなしであった。
何か面白そうな物や金目の物でもあれば目の色も変わろうが、視界に入る物は古臭い調度品や、ありふれた書物ばかりである。
「エスクさん文句ばっかり言ってないで、手を動かしてくださいよ」
「へーへー」
「仕方ないじゃないですか、うちは財政難なんです。貧乏なんですよ。内政だ戦争だとお金が掛かりますからね」
「おかげさまで俺も薄給を頂いてるからな」
「ここのところエディウス兄の眉間からしわが消えたためしがないです。人件費も馬鹿になりません。自分でできることは自分でやりましょう」
「あんまりケチ臭えこと言ってると、よその国になめられちまうぞ、陛下」
「どうせ元からなめられてます」
カシスは、
「手を着けてないのは、あとはここだけかな――」
と、ぶつぶつ言いながら、寝室の寝台の足元へうずくまっている。
「僕が帰ってくる前から置きっぱなしの物が結構あって――ずっと片付けたいと思ってたんですよね――」
やがてカシスは、寝台の下からひと抱えほどもある木箱を引っ張り出してきた。
「おいおい、ベッドの下からとはまたベタだな」
いつの間にか近寄って来ていたエスクが興味津々そうににやついている。
「別にエスクさんの期待してるような物は――」
箱を開け、一番上に入っていた赤い革装丁の本を取り出して、言葉に詰まった。
エスクはカシスの顔の脇からその表紙をのぞき込み、一層にやけた面になった。
「『愛の手解き』だってよ。ほらみろさっそくアタリだ。どれ、中は」
「も、もうエスクさん、こんな物読んでる場合じゃ」
「いーじゃねーか、少し休憩しようぜ」
エスクはカシスの手から本を取り上げると、長椅子の方へ行ってどかっと腰を下ろした。
カシスもやれやれとその後を追う。少々気恥ずかしげに、エスクの隣へ座った。
「さて、クォーダ王家秘蔵の一冊はどんなもんかね」
「嬉しそうですねぇ」
「そりゃ王室御用達のエロ本なんて滅多に見られる機会ねえだろ。街の闇市で売ってるようなエグいやつとはきっと違うんだろうが――」
贅沢な厚い紙のページをぱらぱらめくっていく。
横から遠慮がちに見ているカシスには、本の中身のほとんどが文字ばかりで、ときどき思い出したように挿し絵が挟まれている程度のことしかわからない。もっともその挿し絵一つ取っても、腕のいい画家が手がけたらしく美麗で、裸の男女から天使画のような大らかささえ感じられる。
「面白いですか?」
「面白いか面白くないかで言えば――まああんまり面白い類の本じゃなさそうだ。宮廷での夜の生活をお勉強しましょう的なもんだな」
ようするにハウツー本というのに分類されるやつらしい。妻の寝台への誘い方だの、体位の解説だの、男女の産み分けから性病についてまで手取り足取り記載されている、とエスクは大雑把に説明した。
「やっぱり王家ともなると一冊くらいこういう本が出てくるんだなあ、それも金の随分掛かってそうな」
「変なとこに感心してますね」
「ま、後継者を作るのも一国の王の仕事の内だわな」
「―――」
「おっ、この挿し絵なんかちょっとぐっとくるな。具合よさそうだと思わねえか、なあ」
「知りませんよ、そんなの」
カシスは面倒くさそうにして見向きもしなかった。
エスクもカシスに相手にされないとなると興を削がれ、本を閉じ手近なテーブルへ投げ出した。
「カシス、おまえだって興味がないわけじゃねーだろ? パルティアみたいな女そばに置いておいて」
「僕はそういうつもりで彼女を侍女にしてるわけじゃありません。あなたと一緒にしないでください」
「あっそ」
とりつくしまもない。
黙っていると、沈黙に耐えられなくなったのか、カシスの方から口を開いた。
「その本を書いた人は、何を思って『愛の手解き』なんて題を付けたんでしょうね」
「あん?」
「王の結婚に愛が要りますか?」
「要りますかって、おまえ要らないのか?」
「だって、どうせ僕だって政略結婚するんですよ、シシスみたいに。自由に妻を選ぶ余裕なんて、この国にあるはずありませんから。で、妻との仲はやっぱり上手くいかないって、そういうお定まりの展開になるんです」
「――先王は妃と不仲だったのか」
「らしいです。詳しくは知りませんけど。妃の方もシシスのことをあんまりよく思ってなかったみたいで、だから僕――」
そこまで言いかけておいてカシスはやめてしまった。
(妻だ妃だって自分の母親の話だろうによ)
どうしてこんなに他人事みたいな口調なんだ。とエスクは思った。
「じゃあ妃は妃として、別に愛人でも作ったらどうだ」
「そしてエディウス兄のような境遇の人を増やせと?」
「――すまん」
今のは失言だった。
またしばしの沈黙があった。それに先に耐えられなくなるのがカシスの方、というのも同じだった。
「エスクさん、愛って何なんですかね」
「俺に聞くのかよ、んなもん」
「ネフィルにいた頃はいろんな女の人と遊んだんでしょう。本気で愛した人も一人くらいいたんでしょう?」
「こっ恥ずかしいセリフをよくもまあ平然と言えるもんだな、おまえ」
「恥ずかしいことですか」
「普通の人間にはそれなりに」
エスクは、このなんとなく薄ら寂しい語らいに倦み始めていた。
「そうだな、本気になった娘もいたさ。どんなふうに愛したか教えてやろうか」
と句を継いだ声はいかにも冗談交じりだったし、カシスの肩をつかんだ手はきっと、
「気持ち悪いこと言わないでください」
と、すぐ振り払われるだろうと思っていたから、大して力も入っていない。
が、予想に反してその手が払われることはなく、カシスの体は羽毛のように軽々と長椅子の上へ崩れ落ちた。
当然、エスクも支えを失って体のバランスを崩した。
「!」
エスクは肘掛けへ手を着いて、どうにかカシスの上に倒れるのだけはこらえた。
体の下を見ると、カシスもこちらを見上げている。怒鳴ってでもくれるなり、突き飛ばすなりしてくれれば気が楽だ。見た目は細いがさほど臆病でも非力な少年でもないはずである。
しかしカシスはエスクが期待するようなことは何もしてくれなかった。
ただ、怖いくらい真っ直ぐに見つめ返してくる。
エスクは、仕方なく、気まずいのを我慢しながらのそのそと体を起こした。
「ばかだなカシス、抵抗しろよ。俺がマジだったらどうするつもりなんだ」
「わかってました」
カシスも起き上がる。
「どうせ、冗談だろうって」
エスクはカシスの方を見られないでそっぽを向いている。
「あー」
やたらと顔や前髪の生え際をなでながら考えた。
「愛な――愛ってのは――カシス、おまえの周りにいるみんながな、おまえのことを想ってる気持ちのことさ」
そんな教会の説教じみたエスクの言葉に、カシスは自嘲するような冷笑を浮かべ、
「それって、僕は所詮素晴らしい先王のスペアで代わりなんていくらでもいるってみんなが思ってることですか」
「―――」
エスクはやり切れなさそうにかぶりを振り、長椅子を蹴るようにして立ち上がると、
「エスクさん」
と呼び止められるのにも耳を貸さず、部屋から出て行ってしまった。
(怒らせちゃったのかな――)
と、カシスはにわかに不安になり、同時に、自分は本当のことを言っただけで怒られるのは理不尽だとも思った。二つの気持ちの板挟みで、それから掃除の続きが手に付いたはずもない。
(いや、やっぱり謝っておこう。こんなことで嫌われてもいやだから)
結局そう決心してエスクを探したが、その姿は城内のどこにも見当たらない。
「参軍殿なら今しがた他出なさいました」
と門番の一人が言っていた。
夕方になり、日が落ちる頃になってもまだエスクは帰ってこない。
カシスは、中途半端に散らかったままの自室に一人でいた。
(エスクさん一体どこで何してるんだか)
早く謝ってしまって胸のつかえを下ろしたい。
他に何かしようという気も起こらず、長椅子へ体を沈めた。そばのテーブルに、昼間寝台の下から発掘された『愛の手解き』の本が置いてある。エスクが投げ出したままになっていた。
カシスはなんとなくそれを手に取った。
つまらなそうにページをめくって斜めに読んでいると、途中見覚えのある挿し絵でふと手が止まった。確かエスクが、ちょっとぐっとくるとかなんとか言って見せてきた絵である。
一糸まとわぬ肉付きのよい女が男に下から両足を絡め、歓喜に上気してうっとりと目を閉じている。そんな場面を写したものだった。
エスクはこういうのが好きなのか、とカシスは思った。
(もしあのときのことが冗談でなかったら、僕もこんなふうに)
愛の喜びを知ることができただろうか?
(いやだな、何考えてるんだろう僕)
カシスは本を閉じてテーブルへ戻そうとした。
そのときふいに、入り口の扉が叩かれた。至極上品な音だったから、エスクではあるまい。
「どうぞ」
入ってきたのは侍女のパルティアであった。
カシスはテーブルへ置きかけていた本を思わず背へ隠した。
「パ、パルティア、何か用?」
「先ほどエスク様がお戻りになりました」
「えっ、あ、そう、やっと帰ってきたんだ――」
「それで、あの、これをカシス様に、と」
パルティアは銀のトレーに乗せた切り花をカシスへ差し出した。
カシスが名も知らぬ、黄色い花びらの明日にも咲きそうなつぼみを付けた、ただ一輪の花であった。
「エスクさんが、僕にこれを? どうしてまた」
「ご伝言もございます。『似合わないと思ってるだろうが、俺も愛した女に花くらい贈ったことがある』だそうです」
カシスは花を壊れ物のようにそっと手に取った。
「それから『カチュアに贈ったことのない花を探すのに苦労した』とも仰っていました」
「――それで帰りが遅くなったんだ」
花のつぼみを見つめるカシスの丸い碧眼が、くすぐったそうに細められ、やがて睫毛を震わせてゆっくりとまばたきした。
パルティアが怪訝そうに首をかしげている。
「カチュアって一体どなたでございましょうか」
「さあ、僕も知らないひと」
とカシスは優しい声で答えた。
(了)