眠れる獅子

1

 今週のカフェテリアはスカンジナビアフェアで、クランベリーソースをかけたミートボールやサーモンのソテー、黒パンのオープンサンドイッチが人気だった。
「でもね、アンテロのイチオシはじゃがいものソテーだからね……これが一番実家の味に近いって言ってたよ」
 とイゴールは皿にその料理を山盛りに取って来てご満悦な様子だった。
「アンテロってスウェーデン人だっけ?」
 向かいの席に着いているアダムが尋ねた。「フィンランド」とイゴールは答える。
「フィンランドの神話には魔術を守る巨人アンテロ・ヴィプネンがいて、彼の名前はそれと同じAnteroなんだよ」
 イゴールは同じ研究室の同僚の名前について説明しながら、その合間にポテトを二個三個と口に運んでどんどん食べている。
「む……。……。フィンランド神話では……いろんな動物が神聖視される……熊がその最たる例だけど、鳥も神聖な生き物でね。彼らの世界を創造したのは鳥なんだよ」
「鳥か」
「人は鳥に魂を運ばれて生まれてきて、死ぬとまた鳥に運ばれて冥界に行くんだ」
「往復便のコウノトリみたいだなぁ」
「生きながら冥界に行くことのできるシャーマンもいる……」
――死者の国トゥオネラに祖先の教えを請いに行ったってやつ?」
 アダムはさっそくスマートフォンでフィンランド神話について検索し、ウィキペディアの記事を見つけた。
「トランス状態になって――ってこういう話は世界中のどこにでもあるもんだな」
「アンテロは、自分もその死者の国に行ったシャーマンの末裔なんだとか言ってたけど……」
「えっマジ?」
「……どうかなぁ。彼ってたまにそういう嘘つくから……なんだろう、サービス精神旺盛っていうか……」
 イゴールは苦笑いしつつも、そこに悪意はないようだった。ちょっと面倒なところもある同僚だが、好意的に捉えているらしい。
「ところで……」
 と、話の矛先を変え、身を乗り出して、アダムがランチトレーのそばに置いているタブレット端末をのぞき込んだ。画面には小さな文字の詰め込まれた書類が表示されている。
「どう? そっちははかどってる……?」
「うんにゃ」
 アダムははかばかしくない返事を寄越す。その書類を来週の通院までに読まねばならないのだ。ならないのだが、
「俺こういうの苦手なんだよ」
 と情けない顔をしている。
「なんっっにも頭に入ってこない。最初の方に読んだことはもう忘れてる。目が滑る。ひいおじいちゃんみたいに一回読んだら全部覚えてるような天才じゃないわけよ、こっちは」
「へぇすごいね、それは」
「子供の頃に何百もある教会の墓標を全部言ってみせたとか、『血脈』を丸暗記してただとか――まあどこまで本当かわからないけどな。でも実際、ひいおじいちゃんは現代の俺たち黄金の契り派がやるような記憶術の訓練もなしで魔術を執り行えたんだ」
「あの、ものすごーく長い儀式を……?」
「そうだよ。天才だったんだよ、間違いなく」
「天才……というか、そこまでの先天的な記憶力となると、いわゆるギフテッドだったんだろうね」
「かもなぁ」
 アダムが難儀しているのを見かねて、イゴールも一緒になって書類を読み始めた。
「ノートを書きながら読むといいよ。地図を作るようなイメージで」
「ノートや蛍光マーカーって、あれもこれも大事な気がして書いておくけど、結局後で読み返してもよくわかんなくなるんだよな」
「もっと離れたところから見た地図を作るんだ……目印の建物と大きな道路だけ、みたいな。細部は必要になってから拡大して見ればいい……つまり本文を読み直せばいいんだから……」
 書類の文面には「新薬」や「新たな治療法」――それに類する単語が幾度となく現れる。たぶん――アダムのメイガスハートの治療に関わる内容なのだろうと思われた。
 しかし少なくともイゴールは、今までアダムの口からそんな前向きな言葉は聞いたことがない。
「どういう風の吹き回し?」
 とからかうのもなんだか悪いようで、イゴールは何も聞かずに、一緒になって書類を読むことに専念した。アダムが苦手だ苦手だと弱音を吐きつつも、目の前の難しい文章に挑むのを止めるつもりはなさそうだったから。
――――今日ってレオナは研究室にいるのかな」
 と、苦心の末にようやく一つめの書類を読み終わったとき、ふとアダムがつぶやいた。
「いると思うけど……会ってないの? 夕べはレオナの誕生日のお祝いに、二人で一緒に出かけたんじゃなかった?」
「あーそれはうん――出かけたよ、まあ、うん――
「………」
 アダムはタブレットの画面の上で指をスライドさせて次の書類を表示させた。
「……わかりやすいなぁ」
 とイゴールは愉快がるような口調になり、しゃんと居住まいを正した。それから改めてアダムと額を突き合わせ、書類の上へ屈み込んだ。
「さてそれで、次は何……?」
「次は、えー、ドクター・ルナの今までの治療実績かな」

2

〈Dorothy: レオナちゃんアダムにいつうちに来るか聞いた?ママが毎日気にしてるよ🥺〉
 妹のドロシーから届いたメッセージを確認して、レオナは返信ボタンを押した。押したはいいが、どう返事をしたものか思い浮かばず、空っぽの入力欄が表示されたままになっている。
 やがてスマートフォンの画面がブラックアウトした。結局それもそのままにして、レオナは先に昼食を済ませることにした。
 ヘルシーなチキンと野菜のサンドイッチと紙パック入りの野菜ジュース、フルーツポンチ――とランチバッグの中身をデスクに並べていたところへ、上司のウリエルが隣のデスクに戻ってきた。
「ジュネさん今日はカフェテリアじゃないの。珍しい」
 そう言うウリエル自身も手にケータリングカーの紙袋を抱えている。
「昨日外食したので今日は節制というか――ウリエルさんこそ」
「今日はハズが旅行で留守でね」
 ウリエルは席に着くと、さっそく紙袋を開けて、強いスパイスの香りのするカレーとチャパティのランチセットを取り出した。
「臭うかな? ごめんね」
「いえ」
「そういえば外にご飯買いに出ようとしたとき、カミュさんとサキくんが一緒に歩いてるのを見たよ。彼ら気が合うんだね。ちょっと見た感じは全然正反対なタイプに見えるのにね」
「そうですねぇ――――
 レオナはサンドイッチの封を開け、ウリエルも食べ始めて、その後は会話も少なかった。
〈Leona: ごめんね、アダムには伝えたけど、返事はもらってない〉
 と、レオナはサンドイッチを食べ終えたところでドロシーのメッセージに返信した。すぐにまたメッセージが返ってきて、
〈Dorothy: できれば早めにわかんないかなぁ…〉
 と言う。
〈Leona: すぐにわからないと困るの?ママそんなに気にしてる?〉
〈Dorothy: そういうわけじゃないんだけど…MUのライブがあってね…🫠〉
〈Leona: ライブはいつあるの?〉
〈Dorothy: 来月の聖霊降臨祭の週末にある〉
 ドロシーが説明するところによると、ママはただでさえ自分がロックバンドのライブに行くのをよく思っていない。おまけにアダムが遊びに来るとなったら、
「せっかくアダム君が来てくれるんだから――
 と、家にいるように言われるに決まっているのだ、と。
〈Leona: わかった🙂アダムにも、できればそれ以外の週にしてほしいって伝えておくね〉
 レオナは送信ボタンを押してから、少々憂鬱な気分になった。「伝えておく」と言ってしまった以上、アダムと会って話すことを避けてはいられない。
(いや別に、避けてるつもりはないんだけど)
 意外と冷静な自分が胸の中にいる。それと同時に、昨日誕生日にアダムと食事に行ったことで、なんだかどっと疲れてしまった自分も同じ場所にいる。
 誕生日のディナーのために洋服や靴を買ったり、花束をもらったり、それに――。幼い頃、まだフリルのワンピースがお気に入りだった頃に、無邪気に想像していた大人﹅﹅とはそういうものではなかったかと思う。大人でいるのは思ったよりも重労働だった。
 フリルのワンピースを着なくなったのはいつからか。お人形遊びを止めたのとどっちが先だったかな――と、レオナはぼんやりと記憶を手繰ってみた。
 はっきりとはわからない。どちらも就学年齢になってすぐの頃だったような気がするけれど。
「そんな、いやらしい遊びをして――
 と祖母にお人形遊びを叱られたことを今でも思い出す。
 白い家具のドールハウスには女の子の人形と男の子の人形がいて、二人は恋人同士だった。一緒にキッチンでパンケーキを焼いたり、ソファで寄り添ったり。大人の目を盗んで抱き合わせてみたり、キスさせてみたりもした。
 ドールハウスはレオナだけのお城だった。就学前のドロシーは姉の行くところはどこへでもついて来て何でも真似まねをするのに、お人形遊びにはさほど興味を示さなかったから。
 しかしそのお城も――今は実家の物置のどこかで長き眠りについている。幼いレオナがお人形たちにキスさせているのを見とがめて叱った祖母が十三番目の魔女だったのかは、もうわからない。
(午後になったらサキさんの研究室に行ってみようかな)
 とレオナはフルーツポンチのパックを開けながら思った。アダムが来ているみたいだし、三人でなら話もしやすいかもしれない。
(というか、アダムも来てるのなら顔を見せてくれてもいいのに)
 こちらが避けていないつもりでも、むこうには避けられているかも――と思うと、急に昨夜の恥ずかしさがぶり返してきて、フルーツポンチの味がよくわからなくなってきた。
 (やっぱり今日は止めておいた方がいいかもしれない)という気持ちと(逃げたってしょうがないでしょ)という気持ちが、天使と悪魔の追いかけっこみたいに胸の中でぐるぐるしていた。どちらが天使で、悪魔なんだか。

3

 アダムは書類の方を小休止して、ようやくランチに取り掛かった。薄く切った黒パンに、ニシンのマリネやで卵、真っ赤なビートルートと緑のキュウリの色鮮やかなサラダをたっぷり乗せてかぶりつく。
「む」
 全部の具材を大きなひと口で頬張ったところで、何か思い出したような顔をした。
「むぅ――。ん――そうそう――あれ、土曜日のお誕生日会のことだけどさ」
「うん」
 イゴールが続きを促す。
「俺とレオナの共通の友達がいて、そいつが来たいって言ってるんだけど、呼んでもいいか?」
「それはもちろん……って僕は歓迎だけど、会場はヴルフんちだからね……一応後で彼に確認しておくよ。友達は一人?」
「ガールフレンド連れて来るらしいから二人」
「そうすると……アダム、レオナ、の友達とガールフレンド……僕と僕の研究室のアンテロ、ワンさん、ヴルフと彼の娘のフロレンス……全部で九人かな?」
「思ったよりにぎやかになりそうだなぁ」
「みんなで家に集まってお誕生日会なんて、小学生の頃以来かも……」
「俺も」
「ヴルフがケーキ作ってくれるって言ってたよ。そういうの得意なんだ、ああ見えて……毎年フロレンスのために作ってあげてるからね。お手の物なんだってさ」
「ママのケーキじゃないんだな」
 とアダムは何気なく言って、すぐに後悔した。イゴールはちょっと寂しげな顔をして見せただけで何も言わなかった。アダムはイゴールのその表情から事情を汲み取り、
「悪い」
 と謝った。
「シングルなんだな、あいつ」
「……まあ、ヴルフも隠してないし、オープンにしてるけどね。でも僕から君に話すのも変じゃない」
「俺が勝手に察しただけで君から聞いたわけじゃないって。にしてもヴルフのやついい父親じゃん。俺も父子家庭だったけど、誕生日ケーキまでは父さん手が回らなかったぜ」
「ケーキ屋さんで買ってた?」
「マダム・マグダが作ってくれた――俺が音楽学校に進学するまではな」
「………」
 アダムは黒パンの残りを口に押し込んでしまうと、タブレット端末を手元に引き寄せて難解な書類との格闘を再開した。うーん、と早々にうなっている。
「土曜までには終わらせたいよなぁこの宿題。パーティーの間こんなことが気に懸かって楽しめないなんて絶対やだ」
「そうそう、早く片付けてすっきりした方がいいよ」
「頑張る」
「頑張って……レオナの件もね」
 とイゴールは余計な一言を付け足してみた。するとアダムが急に赤くなり出したから、(やっぱりわかりやすいなぁ)と思う。
「レ、レオナ? レレレオナがなんて?」
「いや別に、僕も根掘り葉掘り聞くつもりはないんだけど……キスくらいした?」
―――
「………」
―――
「あ、したんだ。今回は本当に」
「し、してない」
「した顔じゃん……」
 してない、とアダムは言い張る。赤毛の前髪を真ん中で分けているのを手でき寄せて顔色を見られないようにした。
「……それって、心のカーテン閉めてるみたいな感じの表現?」
 とイゴールが聞くと、
「そんな感じ――
 と、気恥ずかしそうにアダムは前髪の陰で目を泳がせていた。
 ランチを済ませてイゴールが研究室に戻り、午後の就業時間になってしばらく経った頃、レオナが訪ねてきた。
「サキくーん、ジュネさん」
 と同僚のワンが、実験室で解析用の計算機に埋もれていたイゴールを呼びに来た。
 レオナは部屋の入口のところでアンテロに捕まっていて、
「ライオンちゃん、カフェテリアのスカンジナビアメニューもう食べた? まだ? ベリーソースのミートボールがオススメだよ。あれぞ懐かしきママの味だよ」
 などと調子のいい話を聞かされている。
「アンテロ……僕にはじゃがいもこそが家庭の味だって言ってなかった?」
 イゴールは脇から近づいて話に割り込んだ。後をついて来たワンも、
「私が聞いた話とも違うよ。全然違うよ」
 とイゴールに加勢してくれる。「また嘘ついた、アンテロ」とワンは白い目を彼に向けた。ワンは成人男性の平均から大きく外れて小柄で、アンテロは逆にひょろりとのっぽだから、ほとんど真上をにらむような格好になった。
「ええー、別に嘘ってわけじゃぁ」
 とアンテロは言い訳がましい。
「状況判断ってやつだよ。ほら、みんなそれぞれに好き嫌いがあるじゃない。できるだけみんなが喜ぶ話をしようっていう僕なりの気遣いというか」
「よくないよ、そういうの」
「よくないかなぁ?」
 首をかしげているアンテロに、イゴールが、
「友達にはサービスしなくても大丈夫だよ」
 と優しい声をかけた。それから、レオナの方に向き直った。
「ごめんレオナ、何か用だった……?」
「あ、いえ――
 レオナはまごついた。「用というほどのことは――」と声が尻すぼみになる。室内にアダムの姿は見当たらないし、イゴールと一緒にいるようでもなかった。
「えーと、ア、アダムってもう帰ったんでしょうか。来てたって聞いたので」
「ああ、彼今日は午前だけだって……お昼はこっちで食べて帰ったけど」
「そうですか――あの、それだけなんです、すみませんお仕事中お邪魔して」
「………」
 アダムの様子が変だったのを思えば、レオナの方はいつもどおりだとイゴールは思った。
「ライオンちゃん週末のお誕生日会楽しみだねぇ。僕たちもプレゼント用意して行くからね、スゴイやつ」
 とアンテロが懲りていない調子で言う。ワンが「ほらまた」と苦い顔をして、彼の背中を拳で小突いた。
「ジュネさんごめん、スゴくはないよ。普通のプレゼント」
「ライオンちゃんはヴルフの家に行くの初めてだよね? 場所わかる? 駅からは結構離れてるから、車で行く方がいいよ。ワンさんの車に一緒に乗せてもらう?」
「お気遣いありがとうございます」
 とレオナはアンテロへ丁寧にお礼を言ってから、その日はアダムと一緒に行く予定なので――と答えた。

4

〈Adam: アパートメントの前にいる🚗💨〉
 アダムからメッセージが届いた。レオナが日の暮れかかっている窓の外をちょっと見てみると、アダムの愛車のライムグリーンのトヨタが道路脇にまっている。
〈Leona: 今行きます〉
 と返信して、出る前にもう一度鏡を見た。
 ヴルフが指定した今夜のドレスコードは「小学生のお誕生日会に準じる」。淡いブルーのブラウス、ネイビーのニットのベスト、チェック柄のパンツにした。――事前に友達のエリオットに相談して決めた。ポシェットを取り、ルームシューズをローファーに履き替えた。
 靴箱の上に、誕生日にアダムからプレゼントされた白のアルストロメリアが飾ってあった。
「バターちゃん、行ってきます」
 と後ろを振り向いて声をかける。
「イッテラッシャイ。ハヤクカエッテキテ、ネー」
 ケージの中のバターカップに見送ってもらい、レオナは部屋を出た。
 アダムは運転席の外に出て待っていた。彼もドレスコードを忠実に守っており、グレーシャツにイエローのネクタイ、サスペンダー付きのハーフパンツ、ソックス、革靴というコーディネートだった。それがなんだか妙に様になっているようで、レオナは声をかける前についついにやけてしまった。
「あ、笑ってるな。このカッコそんなに変?」
 とアダムの方から言った。
「い、いえ逆ですよ、似合いますねそういう、えーと、良家の子息風とでもいうか」
「俺にお坊ちゃんの素質があるってことだって受け取っておこう」
 行こうぜ、ほら乗って――とアダムはレオナを促した。その後に、
「よかった、普通に話できて」
 とも、小さな声で付け加えた。
 アダムが運転席に、レオナは助手席に乗り込む。
「君の誕生日からこっちMEME(メッセージアプリ)のメッセージでしか会話してなかったから、ちょっと不安に思ってた」
――アダムがサキさんの研究室に来てた日に会いに行ったんですよ。でもそのときにはもう帰ってて」
「ごめん、すれ違ってたか」
 二人ともシートベルトを着けた。
「エリオとそのお友達が一緒だって聞いてたんですけど、途中で合流するんですか?」
 レオナは誰もいない後部座席をちらと見て尋ねた。
「その予定だったけど――エリオの午後の配信が延びちゃったもんで、ガールフレンドと二人で後から来るってさ」
 と答えるアダムの声には緊張が混じっていた。しばらく俺と君の二人きりになるけど――とでも言いたそうな様子で。
 車が走り出して、最初の交差点でまったとき、
「あのさ、この間話したの覚えてる――?」
 とアダムは切り出した。
「どの話ですか?」
「あーあの、なんだ、君の――君にとっては何気ないだろう言動に俺は勇気づけられることが多いって話ね」
 と照れくさそうに。
「今回もそのおかげで、どうにか次の試練でも勇敢になれそうかなってところまで来てるんだっていう、その、つまり? 俺の近況報告?」
「それは――よかったです、けど」
「けど?」
―――
 交差点の信号が青に変わって車が走り出すまで、レオナは黙っていた。
――何気なくはないです。全然そんな余裕はないですから、私」
 と、やっと絞り出したような細い声で言う。言ってから、自分でもそのか細さに驚いたような顔をした。
「え、ええとあの」
「うん――
「あの――今日は反対に私がアダムのことをどう思ってるか話してもいいですか?」
「えなに、急に?」
 怖いなぁ――と、いったい何を言われるのかと身構えつつも、アダムは続きを聞きたがった。
「だって、私たぶんあなたが思ってるような人間じゃないので――私があなたを励ましたり勇気づけたりできてるとしたら、それはあなたにもともと勇気があるからだと思うんです。あなたと知り合うまで、自分が他の誰かの気持ちや考え方に影響するようなことがあるなんて思いもしなかった――
―――
「正確には、子供の頃には少しだけ、そんな大人になれるかもって思ったこともあるかもしれませんけど――
「どうしてそう思うのやめちゃったの」
「わかりません、今ではもう。あなたとオペラに行ったり、誕生日にディナーに連れて行ってもらったり、そのために服を選んだり――そういうときに、そんな子供の頃のことをふっと思い出すんです」
「じゃあ別の質問。君の中の眠り姫はどう思ってるんだ? 目覚めたい――?」
 “眠り姫”に例えられて、レオナは意外そうな顔をし、それから気恥ずかしそうに首をかしげていた。
「そんなこと、考えたことがなくて」
 やがて車はヴルフの家のある住宅街へと入っていった。昔ながらのタイル造りの街で、さして広くない通りの両側に、縦に長い住宅が狭い間隔で建ち並んでいる。車をめる場所は表通りにはない。家々の裏手にあった。前もってヴルフから聞いておいた場所に駐車した。
「ちょっと早く着きすぎたか」
 アダムはシートベルトを外し、左手のスマートウォッチを見た。パーティーの集合時間には二十分ほど早かった。
――なあ、眠り姫」
 と、道すがらした話を蒸し返す。
「これはなんていうか、俺の勝手な想像でしかないんだけどさ――君の自覚の有る無しはともかくとして、やっぱり君の内側の眠り姫は目を覚まそうとしてるんじゃないか?」
「そうでしょうか。どうして――?」
「いやだって、ほら、この間、なあ? お互い眼鏡が正面衝突するようなことがあったわけで」
 と言うアダムも顔が赤かったし、レオナも真っ赤になって反対を向いてしまった。
「残念なことに俺王子様になりそこねたかなーって」
「そ、そういう言い方だと、王子様になりたかったみたいに聞こえますよ」
「なりたいよ」
 みたいじゃなくてさ――実際――と、アダムはその先に続ける言葉に悩んでいるような様子だったが、そんなときに限ってレオナのスマートフォンに着信があり、イゴールからで、
「ねえ、君たちはもう着いてる? 僕今来たところなんだけど……」
 着いてるのなら合流しよう……と言う。アダムが恨めしげなうめき声を上げ、それが電話越しにも届いてイゴールはギョッとしたようだった。

(了)