白のアルストロメリア

1

「やあライオンちゃん、誕生日おめでとう」
 と、昼食時の職場のカフェテリアで声をかけてきたのはイゴールの同僚のヴルフで、
「これプレゼント」
 と言って、レオナの好きな箱入りビスケットの駄菓子をくれた。
「あ、ありがとうございます、ヴルフさん――
「ふむ」
 とヴルフはランチのトレーを持って立ったまま、一人で食事を取っているレオナを見下ろしてなにやらまじまじと観察している。
「あ、あのぅ、なんですか?」
「いや」
 ヴルフは、にやっと笑って言った。
「今夜はヒーロー君とデートってところかなと思ったんだよ。俺の別れた嫁さんも独身時代はオシャレだったな。思い出すよ。若いっていーな!」
 そして笑ったままどこへともなく去っていった。
 レオナは自分の胸元を見下ろしてみて、
(格好を見ただけでわかるかなぁ、夜に予定があるなんて)
 と首をひねるような、気恥ずかしいような気分だった。確かにネイビーのワンピースは下ろしたばかりだけれど、いちおう仕事でも使えるようなものを選んだつもりだったのになぁと。
 レオナは、ワンピースの上から羽織っていた白いカーディガンの前のボタンを全部留めてから、昼食を再開した。
 今日は四月十四日。レオナの誕生日だった。
 偶然にもアダムと誕生日がすぐ近いとを知ったのはついこの間、アダムが研究の手伝いに来てくれた日のことだった。アダムはレオナより少し後、四月二十日が誕生日だそうだ。
「あれ、そうなんだ。じゃあ……二人の誕生日の間の週末にでもお誕生日会する?」
 と言ってくれたのは、そのとき実験室に同席していたイゴールであった。レオナはそれだけでも十分嬉しかったのだが、アダムが、
「だけどさーやっぱり、誕生日のその日に祝ってほしくないか? いや俺はいいんだけどさ、全然。俺はね」
 と口を挟んできて、言いながらレオナの方をちらちら見てくるのだった。
「え? えーと、私も別に――
「わかってないねアダム……誕生日の当日っていうのはなんていうか……その、特別な﹅﹅﹅? 予定が入るかもしれないじゃない……ねえレオナ」
「えっいや何もないですよ! 予定なんて、特別もなにも」
「………」
 だってさ……とイゴールはアダムの方へ向き直って、
「よかったね……ちなみに僕は、君たちが二人だけで誕生日を祝う機会を設けても気にしないよ」
 と含みを持たせるようなことを言う。
 ――まあそんなようなことがなんやかんやとあって、結局、レオナは自分の誕生日にはアダムと二人で食事をする約束になっていたというわけである。
 終業時間になったら、更衣室で靴とアクセサリーを替えてから、アダムと待ち合わせているレストランに行くつもりだった。
―――
 ほんの少し前までは――アダムと知り合うまでは――誕生日の夜に誰かと約束があるだとか、そのために靴を履き替えるだとか、そんなことは、自分には全然無縁だと思っていたのだ。


―――
 アダムは聖エンジュメディカルセンターを後にして、その足でレストラン『サローラン』のある枢機宮通りへ向かうために地下鉄に乗った。
 左手のスマートウォッチを見る。花屋に寄るくらいの時間は十分にありそうだった。心拍数、心電図、バイタルも病院での診察通り正常。
 三つぞろいのスーツに派手なシャツとネクタイ姿でキメて病院に来たアダムを見て、彼の担当医の女性医師は別段驚いた顔もしなかったし、
「診察なのにこんな格好してきて悪かったけど、俺この後デートなんだ」
 とアダムが説明すると、おおいに結構なことだと笑っていた。
「でもカミュさんお酒はほどほどに、食事はバランスよくを心がけましょうね。心臓には極力負担をかけないように――いやデートでそれは無理かな」
「ドクターのその心配はたぶん杞憂」
「だってデートでしょ?」
「まあ、そのー、俺の片思いっていうかね、今のとこ――
 あらあらまあ、と担当医はますますにやついている。笑顔のままで言った。
「ところでカミュさん、前回お渡しした資料には目を通していただけました?」
―――
――次回の診察までには読んできてくださいねー」
 アダムは学校に宿題を忘れて来た生徒のように弁解しようとした。
「でもドクター、何度も言ってるけど俺メイガスハート取る気ないよ」
「いえまあ、そう性急に取る取らないという話にしなくても。今は切除以外の選択肢も出てきてますからね」
 と言って担当医は、顔はにこにこ笑っているが引き下がらない。
「実際あなたの場合は肉腫がかなり大きいですし、後遺症や周囲組織の再建とか、その後の生活のことも考えれば安易に取るべきじゃないと私も思ってます。でもせっかくですから、私の専門領域の自慢話? プレゼン? をしたいっていうのもあるし。心臓外科トークができる相手って案外少ないんですよ。そのためには臨床試験のことなんかも少し知っておいていただけると話しやすいなーと思って」
「ドクター、あきらめが悪いって言われない?」
「患者さんが治療のメリットとデメリットを正しく理解した上で、それでもなおやらないっておっしゃるなら私もあきらめますけどねー」
――うん」
 とアダムはあいまいに相槌あいづちを打つばかりだった。
「カミュさん、今日のところはこの後のデートを楽しみに検査を済ませちゃいましょうか。まずはいつもの血液検査と心電図」
 担当医はデスクトップでアダムのカルテを開いて、今日の診察分のカードを確認してから、改めてアダムに笑いかけた。
「それが済んだら診察室に戻ってきて、エコーで心臓見せてくださいね」

2

 レオナとの約束の時間より少し早く、アダムが『サローラン』に着いてウェイターに案内を乞うと、
「ようこそいらっしゃいました。大切な記念日を当店でお過ごしいただけるとは光栄です。お連れ様はお先にお越しでございますよ」
 と、ラウンジの方へ通された。
 レオナはラウンジのソファーに一人ちょこんと腰掛け、うつむき加減で待っていた。
「レオナ」
 とアダムが声をかけると、レオナも気がついて顔を上げ、
「あっ、アダム。今メッセージを送ろうかと考えてたところでした」
 と言う。
「定時で職場を出て急いで来たら、早く着きすぎちゃいました」
「待っててくれてありがとう。誕生日おめでとう、レオナ」
「ありがとうございます」
 レオナが腰を上げると、アダムは右手を後ろに回して何か隠し持っている様子であり、
――これ? あー、じゃあ先に渡しちゃおうか。ちゃんとしたプレゼントは今度パーティーで渡すけど、ほら、何も用意しないんじゃ俺が物足りない気分だったから」
 じゃーん、と、小さな花束を差し出してくれた。白のアルストロメリアを中心にした愛らしい花束だった。
「わぁ、可愛いですね――
「だろー。でも花屋さんが教えてくれたけど、白いアルストロメリアの花言葉は『凛々りりしい』だってさ。レオナにぴったりだと思ったんだよ――迷惑じゃなかったら受け取ってくれる?」
「バターカップを部屋に放すときだけは気をつけますね」
 レオナはお礼を言って花束を受け取った。
「誕生日に食事に来てお花までもらうなんて、初めてですよ私」
 と、はにかむ。今日でちょうど三十歳の誕生日に、あまりにもできすぎたシチュエーションという気がしないこともないけれど。はしゃいだ気分がつい表情にまでこぼれ出てしまうのが、レオナは恥ずかしかった。
 二人から少し離れた場所に控えていたウェイターが「もしよろしければテーブルにお花を飾りましょうか」と申し出てくれて、二人が案内されてテーブルに着いたときには、白い花を活けたアンティークの花瓶がさりげなく置かれていた。そしてその脇には、店の老主人のシェフの手書きで二人へのバースデーカードも。
「なんだかんだ言って、やっぱり誕生日のその日に祝ってもらえるのって嬉しいですね」
 レオナがオードブルのテリーヌにナイフを入れながら言った。
「来週のアダムの誕生日にも何かしてあげられたらいいんですけど――
「俺はいいよ。先に祝ってもらえるんだし」
「そうですか? でも」
「それよりさ、そのワンピースすごくいいじゃん。レオナに似合ってる」
 とアダムは話の矛先をそらした。
「えっ。あ、ありがとうございます――最初は、前にアダムと一緒に買いに行ったドレスにしようかなと思ってたんですけど、あれはどうしても仕事中には着られないなーと。せっかく買ったんだから着ないともったいないですよね」
「なるほど」
 と笑っている。
「じゃあまた今度は休みの日に、オペラでも観に行くか」
「たまにはいいですね」
「俺もさ、今日の午後は病院で検査と診察があったんだけど、この格好で行ったからドクターにはいろいろからかわれたな」
「あ――ちゃんと病院に行ってるんですね?」
――まあな。メイガスハート取る気はないけど」
 アダムはワイングラスを取って、少しだけ口に運んだ。
「その分心臓に負担がかかるから――心臓のすぐそばにゴルフボールくらいの塊があるわけだからな、それが血管を圧迫してていつ狭心症になってもおかしくないらしいぜ。まあでも、俺の担当のドクターは今のところ血管はピッカピカで血流もしっかりしてますねー素晴らしいですねーってエコー見ながら絶賛してたかな」
―――
「病院側もグレード7を超えて生きてる患者って珍しいから手放したくないんだろうさ」
――そういうものなんですかね。――
 レオナは、アダムの体についての話題となるといつも、何を言っていいのか、どういう言葉をかければアダムが気を悪くしないのかわからなかった。そしていつも、そんな自分が情けない。
 確かに今日で年齢は一つ増えたけれど――精神的にもっと大人にならなくちゃな、と思う。
「あの――主治医の先生ってどんな方なんですか?」
 とレオナは、悩んだ挙げ句にそんなことを尋ねた。
「ん?」
「いえ、えーと、なんだかいい先生なのかなと思って。話を聞いてると」
「いい先生っていうか――手強いな」
「手強い」
「たとえば今日も、俺が渡された資料を読むのサボってたから叱られちゃったよ。専門は心臓外科だってさ。まだ結構若いみたいだけど、自分の仕事にはプライドと責任持ってる感じ」
「やっぱり、いい先生じゃないですか」
「うん――あと出身はコロンビアだって言ってたかな。コロンビアの黄金郷エル・ドラードにはシャーマンがいたんだぜ。知ってる?」
 とアダムは話題を変えた。
「ミイラを作る技術だって持ってたんだ。ミイラの口にはエメラルドをくわえさせたっていうからゴージャスだよな」
「へぇ。私ミイラってエジプトのピラミッドのイメージくらいしか持ってなかったですけど、実際にはいろんなところで作られてたんですね。アダムたちの黄金の契り派でも昔は作ってたんですよね」
「俺たちのご先祖様には、全身をミイラ化させる技術はなかったみたいだけどな。教団で調べたり聞いたりしてみても、ひいおじいちゃんみたいに片手だけとか――体の一部分しか残さなかったらしいよ」
「なんのためにミイラを作ったんですか?」
「さあ――
 それは誰に尋ねてもはっきりしたことがわからないのだと、アダムは言う。

3

「牝鹿のポワレでございます。ジビエといえば秋から冬にかけて、というイメージがありますが、鹿は春から夏、特に牝鹿は春に上質な脂が乗ります。バルサミコのシンプルなソースでその素晴らしい肉質をご賞味ください」
 ウェイターがメインディッシュを運んできた。
「ジビエって秋や冬のものなんですね――すみません、何も知らなくて」
 とレオナが縮こまっていると、ウェイターは「とんでもない」とにこやかにかぶりを振ってみせた。
「お客様ご自身の舌で味わっていただくことに勝る知識はございません。それでも気になることがあれば、何なりとお尋ねいただければ。ジビエは猟期が関係しますので、主に秋から冬にかけてお出ししております」
「俺も質問していいかな」
 とアダムもウェイターに尋ねた。
山鷸やましぎも秋から冬?」
山鷸やましぎの猟期は国内であれば九月頃から始まって一月の間までです」
「だいたい半年後か――
「その頃にはぜひお越しになってください。山鷸やましぎはジビエの王様、滋味に富む味は絶品ですよ」
「うん、楽しみにしとく。ありがとう」
 シェフが腕をふるった季節の料理を、二人とも表情を華やがせながらせっせと口に運んでいたが、あるときふとレオナが、
――近頃思ってたんですけど、アダムってなんだか――
 と言いかけて、しかしそこまで言っておいて急に思い直したように、うつむいてやめてしまった。
「ちょ、そこまで言いかけてやめるとか」
 アダムが口をとがらせたのも無理からぬことである。
「俺が何?」
「あー、ええと、言ったらアダムが気を悪くするかなと思って」
「しないって」
「ほ、本当ですか?」
 それでもなおレオナは逡巡しゅんじゅんしていたが、慎重に言葉を選び直して、ようやく口を開いて言うには、
「なんていうか――近頃、私、アダムと一緒にいて緊張することがなくなったような、気がするというか、そんな――
 と。
――つまりちょっと前までは俺と一緒にいるのは緊張したと」
「し、知り合ったばかりの頃は、実際そうでしたよ。今になって思えばですけど、あの頃のアダムはやっぱり大変そうで、余裕がなかったのかなって」
「そんなふうに見えてたかな」
「最近は病院にもちゃんと行ってるって聞いて安心しましたし、それにさっきも秋のお料理が楽しみだって」
「俺こう見えても通院とか検査とかは真面目にやってるんだって。――えーでも、俺と一緒にいると緊張すると思われてたのはショックだなー。俺はレオナと一緒に仕事したり出かけたりするの楽しかったけど」
「す、すみません」
「オペラも山鷸やましぎの料理も、君と一緒に観たり食べたりするのが楽しみなんだよ」
「そ、そうで――ん、えっ、えぇ」
「レオナのそういう反応ほんといいと思うし、見てて楽しい」
〰〰。からかわないでくださいよ」
「ごめん」
 とアダムは口では謝りつつも、その顔はにやにやしていて反省の色がないのであった。
(私をからかうのが楽しいってことなのかな?)
 と、またレオナがうつむきがちになってこちらを見ていない間だけ、アダムはいとおしげな優しい視線を彼女に向けていた。
 二人の間の話題はさまざまに移り変わった。
「ママが『アダムくんはいつ遊びに来てくれるのかしら』って気にしてるみたいですよ。ドロシーから聞きましたけど」
「なんか俺が知らないうちに君んちに行くことになってる?」
「去年の年末頃にお城を見たいって言ってたじゃないですか」
「ああ、黒獅子城。それは――確かに見たい」
「ひいおじい様とひいおばあ様の思い出の場所なんでしたっけ」
「なんでも黒獅子城で出会ってすぐ恋に落ちちゃったらしいよ。昔の人はスピード感が違うよな」
「スピード感」
 とか、
「今度さ、音楽学校時代の同級生と演奏動画撮ることになったんだよ」
「エリオ?」
「んやあいつじゃなくて、俺と同じバイオリン専攻の同級生。まあ――なんやかんやあって最近連絡取り合うようになってさ」
「へぇー――そういうのってうらやましいです。楽しみにしてますね。何を弾くんですか?」
「まだ決めてないけど、たぶんラヴェルかな。ラヴェルってオーケストラの魔術師って呼ばれてるんだけど、実際ラヴェルの出身地ってバスク地方なんだ。魔女信仰で有名な――
 とか。
――よき語らいの夜になりましたでしょうか?」
 デザートの済んだ頃になって、厨房から老主人のシェフ、バティスト・サローランが挨拶に出てきた。
「シェフ、厨房はいいの?」
 とアダムが聞くと、
「この小さな店で私の目が行き届かない場所はありませんので。今夜は平日でいていますしね」
 と、バティストは答える。
 アダムとレオナはお互いにちょっと目配せし合った。今夜はレオナの方が正客ということで、レオナは居住まいを正して、バティストへ料理とバースデーカードのお礼を伝えた。
「あの、鹿のお料理がとっても美味しかったです。子供の頃、実家の父が狩猟に行って鹿を撃って帰ってきたことがあって、そのときは子供心にショックで食べられなかったんですけど」
「大人になるって残酷だよなー」
 と茶々を入れたのはアダム。
 バティストはレオナの気持ちに理解を示して、
「幼少の間は物事の感じ方にしても味覚そのものにしても大人とは違うことが多いですからね――よろしければラウンジの方で食後酒はいかがです?」
 と勧めてくれたが、レオナは明日も平日で仕事があるからと丁寧に断った。

4

「レオナ、タクシー呼ぼうか?」
 と店を出る前にアダムが気づかってくれた。
 レオナはスプリングコートを着込んで、駅まで歩いて行くと言う。
「大丈夫ですよ、歩きやすい靴ですし」
 それに夜風が案外ひんやりしていて、ワインで照った頬を心地よくでてくれる。
 アダムは駅まで送るよと言って、ついて来ていた。
 枢機宮通り沿いに行くと、やがて南北に流れるイール川と交わる。橋の上に差しかかったとき、風が強くなり、アダムは黒縁眼鏡の上に落ちてくる前髪をき上げて歩いた。
「そういえばアダムって視力が悪いわけじゃなくて、サングラスですよねそれ。目を紫外線から保護するための」
 と、ふいにレオナがそんなことを言った。
「? そうだけど?」
「夜もかけてる必要あるのかなぁ――という素朴な疑問が」
―――
――あ、あの、気に入ってかけてるんだったらすみません。ええと、忘れてもらえたら――
「いや」
 とアダムはかぶりを振った。
「なんつーか、かけてる方がなんとなく自信が出る? というか? そういうのあるじゃん、お守りってほどでもないけど、ちょっと気分が上がるアイテム」
「じゃあ眼鏡を外したら弱気になるんですか?」
「意外とナイーブなアダムになるかもね」
 橋の中腹辺りまで来たとき、二人は足を止めて、黒い川面かわもに映る夜景を眺めた。両岸のとりどりの夜の明かりが不定形に揺らめくのを見下ろしながら、アダムは何気ない仕草で眼鏡を外した。
「今ナイーブになってるから優しくしてほしい」
 と言うので、レオナは思わず笑ってしまった。
「笑わないでよ。実際わりと繊細だかんね。悩みとかもあるし」
「あ、私でよかったら聞きましょうか――いえその、私にわかることなら。そうでなくても共感できることはあるかも――
「俺が今一番悩んでることは、レオナにはたぶん、本当の意味では理解できないと思う」
 と言われて、レオナはしょんぼりしたが、アダムの言葉には続きがあって、
「でもそれって当たり前でさ、似てたり共鳴できるような部分はあるとしてもやっぱり俺と君は別の人間で、生まれ育ちも違うし、職業も、体調も違うわけだから。いいんだよ、わからないことがあっても」
 と、言う。
「わかってもらえなくても、共感されなかったとしても、君と話してるだけで勇気づけられたり、君の言動が気にかかって悩みどころじゃなくなったりすることはあるしさ。そういうのって――それはそれで、結構いい関係なんじゃないかと俺は思うんだけど。――。君はどう――?」
 アダムは橋の欄干に体を預け、レオナと目の高さを合わせるようにして顔をのぞき込んだ。
「わかりません――
 とレオナはアダムの視線から逃れるようにうつむいた。両手で抱えていたアルストロメリアの白い花束を抱きしめるようにして小さくなっている。
――また私をからかおうとしてるんじゃないですよね?」
――俺の日頃の行いが悪いことは承知したけど、今のをそう受け取られるのはちょっと傷つくな」
 アダムは眼鏡をかけ直して、しばし物思いに沈むように川面かわもを見つめてから、
「やってみても結局だめかもしれないことを、それでもやるか、やめておくか、俺が決めなくちゃならない。って状況なんだ。で俺は、そのどっちかの決心をする勇気がない」
 と言った。
「まあ――ひいおじいちゃんの手メイガスハンドのときだってそうだった。人生ってそんなことの繰り返しなのかもしれない」
「あのときのアダムは、すごく、勇敢だったじゃないですか」
「次も勇敢になれる保証はないから」
 決断のときは訪れる。次も、その次も、勇気ある決断を迫られる。
「アダム、さっき――私があなたを勇気づけたり、な、悩みどころじゃなくしたり? したことがあるって言ってましたけど、自分では全然わからないです。私に何ができるのか」
 とレオナが申し訳なさそうに言うと、アダムは笑ってかぶりを振った。
「レオナにはそれだけの力があるよ。ほんとに」
「私、何かしてあげたことがありましたっけ?」
「そーだな、たとえば、俺のほっぺにキスしてくれて、しばらくの間そのことしか考えられないようにしてくれたことがあった」
―――
「思い出した?」
 ふと、アダムは沈んだ面持ちに戻り、そのまま長い間黙り込んでいた。やがて、胸の中に何か小さな決意が生まれたようにレオナを見つめ、
「もう一回してほしいって言ったら、してくれる?」
 とささやいた。
 レオナは何とも答えなかった。花束がひしゃげるほどにそれを抱きしめて、丸い眼鏡の奥で碧眼へきがんをいっぱいに見張って、立ちすくんでしまっているようにも見えた。
―――
 アダムは半ばあきらめのついている気分で、それでも、目をつぶって待った。
 すると思いがけず、暗闇のむこうで、レオナがゆっくりと体を近づけてきた気配を感じ、心臓がひっくり返って発作を起こすのじゃないかと思うくらい高鳴った。
――ええと、あ、あの、ど、どうしたら」
 いいのか――とレオナが声を震わせて問いかけてくるのも思いがけなかった。
(えっ、ど、どうって――?)
 アダムだって戸惑っていたが、それを押し殺して、
「君のお気に召すままにどうぞ」
 と、せいいっぱい格好つけた。
 レオナが背伸びをしてさらに近づき、顔のすぐそばに吐息を感じた直後、目元に軽い衝撃があって眼鏡と眼鏡がぶつかった音がした。アダムが驚いて目を開けると、レオナも同じようにびっくりしたらしく慌てて身を引いたところであった。
「あ! あっ――――。すみません――私、やっぱりその――ごめんなさい――
 とレオナはひどくうろたえ、どうやら真っ赤になっているらしい顔を、隠すように、ぷいとむこうへそむけた。アダムも急に両頬が熱くなってきた。思わず手で口元を覆って――さっき眼鏡をかけ直したことをどうしようもなく後悔した。

(了)