男達は凶暴につき

「また、あの野郎が来てますよ」
 まだ皐月さつきの初めだというのに、着物をだらしなく肌蹴て縁側に腰掛け、心太ところてんをすすりながら雪路ゆきじが屋敷の入口の辺りを指差した。
「ほら、あの、くそ地味な着物の……」
 見れば、そこに男が二人立っている。
 片方は自分のよく知っている男だ。
 そしてもう片方が、雪路の言うくそ地味な着物の男である。
 着物も地味なら格好すべてが地味だ。
 髪は総髪を低いところで纏めてくくっただけ、地味な色の着物は尻からげにして、剥き出しにされるはずの両脚は股幅巾ももはばきに隠されている。
 股幅巾というのは、普通それぞれの脚の形に合わせてぴったり沿うように仕立てられるものだから、穿いていれば脚の形はよく分かる。
 その男の脚は、なかなか他に無いほど形が良かった。
 しっかりと肉がついているのだろう、ふくらはぎは引き締まってよく膨らんでいて、それでいて足首は鳥肌が立ちそうなほどほっそりとしている。
 そして膝から下の長さがかなり長い。
 まさに素股の切れ上がった、という形容がよく似合う、すらりとした姿である。
「またって、前にも来てたのかあんな男」
「来てましたよ」
 口の中の心太を飲み下し、雪路が頷く。
 ふとその手の中の器を覗いてみれば、つるりとした心太の上には蜜がたっぷり溢れるくらいかかっている。
 甘党にも程がある。見ているだけで胸が悪くなりそうだ。
「…相変わらず好きだなてめえも。そんな甘ったるいもん、女子供の食いもんじゃねえか」
「へっへっへ、そう言わねえでくださいよ。冷えた心太に蜜を山とかけて……こればっかりが俺の贅沢なんでさぁ」
「金のかからねえ男だな」
 雪路がまた、へへ、と笑う。
 肌蹴た襟元から締まった胸板が覗いている。
 器に残っていた蜜まで飲み干して、再び入口に立っている二人の男を見た。
「それより、あの二人あそこで何話してるんでしょうね」
 そう言って、こちらにちらりと視線を向ける。
 様子を見てこようというのだろう。
 しかし俺はそれを制し、
「俺が行こう」
 言いながら立ち上がった。
「いやでも若頭……」
「気にすんじゃねえ」
 特にこそこそすることもなく、俺は二人の男の方へと歩み寄っていく。
「…まだ、色よい返事は貰えそうにねえかい」
 と、片方の男が言ったのが聞こえた。
「さあ……俺には何とも」
 もう片方の、地味な男が呟くように答える。
「俺はただの使いですからねぇ」
「悪い話じゃねえと思うんだが……」
 最初の男が言いかけたところに、
「親分」
 と、俺が呼びかけると男は少し驚いたようにこちらを見た。
「お客さんですか」
 地味な装いの男は、俺が視線を向けると軽く頭を下げながら、しかしそれと同時に顔もそらされた。
 だからちらりとしかその顔は見えなかったが、その一瞬の間、俺はあっけに取られていた。
 格好とは対照的になんと派手な顔立ちをした男か。
 切れ長で大きな眼や、通った鼻筋、膨らんだ血色の良い唇、どれをとっても人目を引くに十分過ぎる。
「親分さん」
 男が言った。
「俺はこれで失礼しやすよ」
「……首領に宜しくな。そっちからいい返事がもらえるまで、そう簡単に諦めはしないと伝えてくれ」
「へい……」
 返事もそこそこに、男はそそくさと屋敷を出て行く。
「親分、何ですかあの男は」
 俺が言うと、その場に残った方の男は表情一つ変えずに、
「昔世話してやった男の弟分だそうだ。格好はやたら地味だが、いい男だろう」
 と、言った。
「…そうですね」
 俺が聞きたかったのはそんなことではない。
 あの男が何の用事で使いに来ていたのかということだ。
「そんなことより、伊吉いきち、何か用か」
 伊吉というのは俺の名だ。
「いえ……商売のことの方で、少し話が」
「ああ、そうだったか。なら中へ戻ろうじゃねえか」
 言うが早いか男は屋敷の中へと踵を返す。
 俺はその後を追いながら、先程出て行った男のことを考えた。
 あんな男を弟分に置くような野郎がいるか……
 下世話な想像が頭の中を巡っていく。
 ふと男の両頬に刺青か何からしい色鮮やかな模様が入れられていたことを思い出した。
 みだらな想像の中で、男の汗ばんだ裸体が跳ね上がり、反り返った。


兄哥あにい、兄哥聞いてるんですか」
「ん……」
 呼ばれてようやく、伊吉は我に返った。
「あ、いやすまん」
「しっかりしてくだせえよ、次の親分になるってえお人が。考え事なんて親分になってからいくらでもできやしょうに」
 一人が言うと、周りの三人が笑みを洩らす。
「そうですよ」
「若頭は普段はしかっりしてるのに、気を抜くとすぐそれだ」
 その中に、雪路の姿もある。
 伊吉は苦笑いをした。
「だからこそ、てめえらについててもらわにゃあ」
「嬉しいことを言いなさる」
 伊吉の右手に座している男が言う。
 名をとおるという男だ。
 切れるように細くつり上がった眼が、伊吉に視線を向ける。
「しかし兄哥、簡単に気は抜きなさんな。兄哥が次の親分と決まったようなものとはいえ、近頃は妙な噂も多い。何が起こるか分かりやせんぜ」
「噂ってぇ何だよ」
 通の正面で胡坐をかいている雪路が訊いた。
 さらにその雪路の左手にいる、藤袴ふじばかまという男が言った。
「おめえ通よ、噂ってのはあれかい」
 伊吉、通、雪路、藤袴の四人は、それほど広くもない座敷の真ん中で頭をつき合わせて腰を下ろしている。
 それぞれの膝の前には小さな膳が置いてあって、徳利とっくりと、その横にさかなの煮豆が小さな椀に盛られて添えられている。
「噂ってのは……親分が、近いうちに跡目を譲るんじゃないかっていう……あれか?」
「何?」
 雪路が緊張した声を上げる。
「跡目って、誰のことだ」
「少なくとも俺のことじゃあねえな」
 伊吉が言う。
「最近見つかった親分の孫も、まだ五つの小僧っ子だろう」
「ああ、あのこの間親分の娘だっていう女が連れてきたガキですか」
 藤袴が頷いた。
「若い頃の女遊びのツケが回ってきたってことなんでしょうねぇ……ま何にしても、五つじゃ親分にも店主にもなれやしませんよ」
「どうして親分は、若頭を選ばないんでしょうねぇ。商才も人望もあるってえのに」
 雪路が煮豆をつまみながら言った。
 下戸らしく、徳利の中身には一口も口をつけていない。
 その徳利を横から手を伸ばして藤袴が掴み取る。
「まったくなぁ」
 徳利の中身を自分の杯に注ぐ。
 伊吉と通は何も言わなかった。
 ただ黙って杯を口に運ぶ。
 この二人は、雪路と藤袴の二人より若干多く齢を重ねている。
 通が静かに言った。
「ともかく、親分が隠居しちまわねえ内にやらなきゃなりませんよ」
「ああ」
 伊吉がこうべを振る。
「まあ、あの糞爺くそじじいのこと、まだ腰も曲がらねえらしいし、しばらくは現役だろう。年寄りの冷や水が」
 それを聞いて通が、ふふ、と笑う。
「あの爺なら山ン爺にでもなれそうですがね。表向きは唐、南蛮相手に手広く商売してるだけの商人のように見えて、裏では港一帯を締める博徒の親分ときたもんだ……まあ、兄哥がそれをそっくりそのまま継ぐわけですが」
「俺も年を取れば糞爺呼ばわりされるわけだな」
「年取ったら誰だって爺婆じじばばですよ」
 通が空になった杯に新たに酒を注いだ。
「五日後はどうです」
「ん?」
「やるのにですよ」
「五日後か」
「不都合でも?」
「いや」
 伊吉は杯を強く握り締めた。
「やろう」
 雪路と藤袴が身を乗り出してくる。
「おお、いよいよ」
 あまりに嬉々とした表情で言うので、通が少しばかり眉間に皺を寄せながら、たしなめる。
「分かってるんだろうな、遊びじゃねえんだぞ」
「分かってるよ」
 藤袴が笑いながら言う。
「いよいよ兄哥の天下か」
「おう」
 静かに伊吉は頷いた。
「通、細かいののことはてめえに任せるぞ」
「あい、若え連中にはそれとなく伝えときますよ。藤、おめえは得物を見とけよ」
「へいよ」
「雪路、てめえは年寄り衆の見張りだ」
 と、伊吉が言うと、
「へい親分」
 悪戯っぽく、雪路が笑う。
「よせやい、まだ親分じゃねえ」
「あと五日でそうなるんでしょうが。今の親分が死ねば若頭が……」
れ言は仲間内だけにしておけよ」
 通が雪路の言葉を遮るように言い捨てた。
「めでてえなぁ」
 藤袴がにやにやと笑いながら、
「なあ、話もまとまったことだし、そろそろ女呼ぼうぜ」
 と鼻の下を伸ばしたのを見て、やおら伊吉はその場に立ち上がった。
「兄哥?」
「話もまとまったことだ、俺は帰る。女を抱くほど、今日は元気もねえ」
「なんでえ、前も同じようなこと言ってたじゃねえですか」
「そうだったかな」
 言いながらも伊吉はさっさと座敷を後にして出て行ってしまう。
「通」
 雪路が怪訝な顔をしたまま問う。
「伊吉の若頭は、ひょっとしてこっちの方が駄目なのか?」
「さあな」
 通ははっきりとした答えは返さなかった。
 しばらくすると、伊吉が帰り際に店の者に言いつけたらしく、三人の遊女姿の女が座敷にやってきた。
 中の三人に艶のある笑みを向けて、媚を売ってくる。


 部屋に戻ると、すでに床の用意が済まされていた。
 屋敷の者がそうしたのだろう。
(さすがは俊三しゅんざ親分か……)
 まったく、下男までよく目が行き届いてしつけられていることだ。
 俊三の屋敷に住まうようになったのは最近のことだが、いろいろと驚かされることが多い。
 それほど大きな屋敷ではないが、それにしても使用人の少ないこと。
 これにまず驚いた。
 その代わりに、使用人一人一人はよく働いて、仕事が早い上に丁寧で文句のつけようもない。
 もう一つ驚いたことがある。
 それほど働き者の使用人がいるくせに、何故か庭だけはまるで野山の中かというような荒れ庭であることだ。
 伊吉は床にもぐり込みながら、先程の続きを考えようと目を閉じた。
 さっきは、藤袴に邪魔をされて途中で止めてしまったのだ。
 じきに脳裏に浮かんでくる姿がある。
 昼間会った男の姿が、じんわりと瞼の裏に浮かび上がってくる。
 切れ長の眼、通った鼻筋、膨らんだ朱い唇に細い輪郭……ところどころ思い出せない細部がもどかしい。
 瞼の裏の男の体から、着物が一枚剥がれ落ちる。
 ゆっくりと、想像の中で男の腹の辺りを撫で回す。
 ああ、触りたい。
 撫でたい。
 歯を立ててやりたい。
 あの男はどんなふうに声を上げるのか。
 舌の先で突いて、舐め上げて。
 どんなふうに身をよじるのか。
 その朱い唇に咥えさせてやりたい。
 際限なくそんなことを考え続ける。
 手足を床につかせて、後ろから……
 昼間男と別れてから、考え始めたら止まらなくなった。
 蜘蛛の糸に絡め取られたように、心の臓が締め付けられる。
 みだらな情景を頭に浮かべては息が苦しくなった。
 伊吉はたまらず己の脚の間に手を伸ばした。
(あと五日……)
 五日であの男が手に入るのならもっといいのだが、実際に手に入るのは、この手で殺す俊三の後釜だ。
 明日もあの男は来るだろうか。
 俺が俊三の跡目になってからも来ればいいのに……
「……」
 自慰行為に下腹部が突き上げられるほど強く感じる。
 不意に身体が震えた。
 突然に訪れた激しい嫉妬に伊吉は身を振るわせた。
(思い出したくもないことを……)
 あのなまめかしい男の兄分とは一体どんな野郎なのか。

 荒れ庭に面した縁側におもむろに腰を下ろして、俊三が傍らで立ったままでいる蛇骨を見上げた。
「座りな」
 言いながら左手で、体の横の縁側板をとんとんと叩く。
「いや、俺は……」
「急ぎの用でもあるのか。なんなら俺が首領には話しといてやる。まあいいから座りねえ」
 しぶしぶ、蛇骨は俊三の隣に腰を下ろした。
 今日も昨日と同じで、地味な色の着物に濃い色の股幅巾を穿いている。
 ただ今日は昨日と違って、髪はいつもと同じように結っている。
 俊三がその股幅巾を指して言った。
「暑くねえかい、そんなもん穿いて」
「暑いですよ」
「だったらどうして、わざわざ穿いてくるんだ」
 蛇骨は面白くなさそうにそっぽを向いている。
「穿いていけって言われたもんで」
「着物も地味な色に着替えろって言われたか?」
「……」
表情かお見りゃ分かる。おめえ相当派手好みだろう、ほんとは」
「……」
「そういう格好なりをしろっていうのは、蛮骨に言われたか」
「……ええ」
 俊三が可笑しそうに笑う。
「あの野郎、随分こたえてやがるな」
「こたえて……?」
「あいつは昔一度俺の子分に掘られかけたことがあってな…まあ、それで俺と蛮骨は一度は縁が切れたようなもんだ。そういう覚えがあるから、おめえにも地味で目立たねえような格好しろって言ったんだろうよ」
「……」
「だが格好がそれでも、その顔と体つきじゃ、意味がねえような気もするがな。もっと普通の男はいねえのかい、仲間に」
「…俺たちだって暇じゃねえんですよ」
 多少苛立った声で蛇骨が言う。
「やくざどものごたごたに付き合ってる暇なんて、ねえくらいなんですけどね」
 俊三が、それを聞いて苦笑する。
「さすがに蛮骨の弟分だっていうだけあって、はっきり物を言う野郎だな」
「そうですか」
「今は…傭兵なんかやってるんだってな。楽しいかい、戦なんて。くだらねえ侍どもの喧嘩に首突っ込んで、いいことといや白い飯が食えることくらいじゃねえか……」
「悪党の親分やってるよりは、よほど楽しいんじゃねえですか」
 他人事のように蛇骨は言った。
「そう言うなよ」
 俊三が急に真面目な声になって言う。
「昨日も言ったが、俺はあきらめねえぞ。こんな文の遣り取りばっかりで、顔も合わせねえままであきらめがつくか」
「早くあきらめてもらった方が、俺としちゃ嬉しいんですがね。つかいを頼まれる度にいちいち着替えんのは面倒でたまらねえ」
「そうかい、なら蛮骨を連れてきてくんな。その方が話が早い」
 言いつつ俊三は懐から取り出した紙の包みを蛇骨に手渡す。
「今日の分だ。返事楽しみにしてるぜ」
「したところで腹が減るのが早くなるだけでしょうよ」
 受け取った包みを懐に突っ込んで、蛇骨は立ち上がった。
「待てよ、まだ話は済んじゃいねえ」
「そんなに話がしたけりゃ、そっちから来たらいいじゃねえですか」
「……」
「失礼しやすよ」
 俊三は深い溜め息をつくと、蛇骨の後姿に向かってぽつりと声を掛けた。
「目立ちたくなけりゃ庭ぁ抜けて帰りな。裏口は開いてる」
「……」
 返事一つせず、蛇骨は向かう先を変えた。
 日暮れが近く、屋敷の荒れ庭には影が色濃く落ちている。


 あと五日も先だと思っていたのに、時の経つのは早いものだ。
 もう日が暮れて一日終わってしまう。
 手足の先が痺れるような緊張を感じながら、伊吉は屋敷の荒れ庭の中を歩いている。
 たとえあと数日の間とはいえ、親分が生きている間はしっかり若頭役に徹しなければならない。
 表の商売にしても、裏でのことにしても、残り四日の間は忠実に親分の補佐役を務めなくてはならないのだ。
 だから今も、表の帳簿を持って親分の元へと向かっているところである。
 親分のいる母屋に行くには、荒れ庭を通り抜けて行くのが一番近い。
 しかし近いは近いが、歩きやすいとはいえない。
 なんせ野山の木や草をそこにそのまま植えたような、木も草も伸びっぱなしの庭だ。
 むしもたくさんいるし、蛇や小さな動物もいる。
 まあ、賊がひそむにはもってこいの庭だろう。
 四日後、その賊になるのは自分である。
 伊吉は小さく溜め息をついた。
 今日はやはりあの男は来なかったのだろうか。
 つまらない。
 そんなことを思いつつ、大きく横に伸びた木の枝をくぐった時、
 さくっ、
 という、草鞋わらじが草を踏むような音が耳に届いた。
(誰かいるのか……)
 足音の主に心当たりは無い。
 この庭を通り抜けるような者はそれほど多くないはずだ。
 その上、今は日暮れ時で視界も良くない。
 まむしが出るから、と言ってほとんど誰も通ろうとはしないのに……
 不可思議に思いながらも、伊吉は歩を進めていく。
 わざと音を立てて歩いてみたが、聞こえてくる足音が止まる気配は無い。
 少なくとも賊ではなさそうだ。
 そして伊吉が、庭の一番大きな桜の木の下を通りかかったとき、足音の主はようやく姿を現した。
 あっ、と、息を呑んだ。
「昨日の……」
 あの男だ。
 刹那心臓の鼓動が、臓器が破裂するのではないかというくらい、大きくなった。
 伊吉から少し離れたところで、蛇骨も立ち止まった。
 伊吉に一瞥をくれると、
「どうも」
 と、それだけ言って、すぐにまた歩きだす。
 礼も交わさないままに、伊吉とすれ違おうとした。
 愛想の無い男だ、と、伊吉は思った。
 だがそのどこか不機嫌そうな表情も悪くない。
 昨夜思い出せなかった男の顔や体の細部を、しっかりと目に焼き付ける。
(顔は悪くねえけど俺の趣味じゃねーな)
 すれ違いながら、蛇骨は思う。
 顔つきは精悍だが可愛げが無い。
 蛇骨の結い上げられた髪に、伊吉は目を引かれた。
 正確に言えば、髪が結い上げられて剥き出しになったうなじの辺りに、である。
 今すぐに勃起してしまいそうだった。
 できるものならこの場に押し倒して犯してしまいたい。
 そうできないのがはがゆい。
 母屋で俊三が待っているという状況が気持ちに歯止めをかけている。
 ぐび、
 と、咽喉を鳴らして伊吉が口の中に溜まった唾液を飲み下した。
 突然、蛇骨が小さな声を上げて足を止めた。
「痛っ…!」
 見れば大きな桜の木から伸びた、葉だらけの横枝が蛇骨の後ろ髪に引っかかっている。
「髪が……」
 伊吉が言いかけると、その拍子に、
 ころん、
 と、蛇骨の頭のかんざしが外れて草むらの中へと転がっていった。
「あっ」
 蛇骨が後を振り返って、しかしかんざしが外れたおかげで枝に引っかかった髪の毛もその呪縛を逃れたらしい。
 かんざしが落ちたと思しき辺りに手を伸ばそうとして、その手を横から伊吉に掴まれる。
「下手に手なんか突っ込むと蝮に咬まれますよ」
 伊吉が言った。
「……」
「俺が拾いましょう」
 言うなり、伊吉は手に持っていた帳簿を草むらの中で掃くように動かし始める。
 蝮がいれば大概これで追っ払える。
 そうしてからその中に手を差し込んで、転がった蛇骨のかんざしを探した。
 ほどなくして見つかった。
 大して遠くまで転がってもおらず、手を伸ばせば届くところに落っこちている。
 伊吉が心を決めるのにかかった時間はほんの一瞬だった。
 蛇骨からは、陰になっていて伊吉の手元は見えない。
 伊吉は草むらの中で手を動かす振りをしながら、かんざしを指の先で小袖の袂の中へと放り入れた。
「ありませんね……」
 伊吉が呟くように言う。
「そんなはずは……」
「暗くて見えないだけかもしれやせんがね。それとも思いの外遠くへ転がったか」
 言いながら身体を起こす。
「大事なもんでしたか」
「…まあ」
「それなら探しておきますから、また明日にでも取りに来てくださいよ」
「……」
「一日もありゃ見つかります、さすがに」
 ちっ、と、蛇骨が舌を鳴らす。
「分かったよ」
 そして、ぷい、と伊吉から顔を背けるように踵を返す。
「夕方になってから来てくださいよ、昼間はこれでも忙しいんでね」
 その伊吉の言葉を聞いていたのかいなかったのか、ただ黙って蛇骨は去っていった。
 その場に一人残されて、伊吉はかんざしの入った袂を押さえてにやりとする。
 さっき触れた蛇骨の肌の温度と感触を思い出して、思わず鳥肌が立った。

「あと三日かぁ……」
 藤袴が、間延びした声を上げた。
「なんか緊張するな」
「ああ……」
 通は、どこか心ここにあらず、といった調子で返事を返す。
 通と藤袴の二人は、港の船着場に並んで腰をかけている。
 大型の貿易船が何隻かいかりを下ろして、緩やかな波の上でたゆたっている。
「どうしたんだ、通、ぼーっとしておめえらしくもない」
「そうか?」
「そうだよ。あと三日でことを起こそうってのに、大丈夫かよそんなんで」
「何、大丈夫だろう。一時いっときのことだ」
「だといいけどよ」
 藤袴が欠伸を一つつく。
「にしても静かだなぁ。風も無いし、波も立たねえ」
「…嵐の前の静けさというやつかもな」
「嵐って、三日後にくる予定の嵐か」
「……」
「通?」
 黙り込んだ通の顔を、藤袴が覗き込む。
「どうしたんだよ、おめえ今日はやっぱ何か変だぞ」
 通は、一体どこから取り出したのか右手に握ったかんざしをじっと眺めている。
 細やかで美しい模様が描かれた大ぶりのたまの飾りが日の光を反射して光っていた。
「…何だそれ? 随分ものの良さそうなかんざしだな」
「ああ……」
「あっ、ひょっとしておめえ、女でもできたのか。だからそんなにぼーっとしやがって……こんなときに随分余裕だなぁ」
「違う、そんなんじゃねえ」
「じゃあ何なんだよ」
「……」
 通の細い目がいっそう細くなって、握り締めたかんざしの模様を睨みつけるように見つめている。
「…なあ、藤」
「ん」
「てめえ男に迫られたことあるか」
 藤袴が目を剥いた。
「おめえできたのは女じゃなくて男か」
「馬鹿野郎、そっから離れろよ」
「…俺ぁ女にだって迫られたことねえぞ。ましてや男なんかに……」
「俺はある」
 藤袴が再び目の玉を剥いた。
「嘘だろ」
「嘘じゃねえ」
 藤袴はまじまじと通の顔を見つめる。
「ガキの頃の話か?」
「いや、去年だ」
「……」
 去年だ?
 去年といや、俺だってもうこいつと知り合ってたのに……一体いつの間に……
「いつの間にんなことに……いやそれより、おまえ、その、ほ、掘られたのか」
 通が首を振る。
 そうして、うな垂れた。
「…相手は誰だよ」
「……」
「あ、いや、別に言いたくねえってんなら聞かねえよ」
 通がかぶりを振る。
「伊吉の兄哥だ」
「…嘘だろ?」
「……」
 通は深く細い溜め息をついた。
 藤袴はもはや何と言ったらいいのかすら分からなかった。
 軽い眩暈めまいを覚えて、下手をしたら足元の海の中に落ちてしまいそうだ。
「…驚かせて悪かったな」
 通が、掠れた声で言う。
「もう戻ろうぜ」
「……」
 おもむろに通が立ち上がり、踵を返した後も、藤袴はしばらくの間そのままの姿勢で動かなかった。
 伊吉の兄哥と、通がそういうことになっていたのは、まあ、いい。
 どうして通が今になってそんな話をしたのか、それが気になった。
 頭上で日は南中から大きく傾き、白い光からあかい光へと、そそぐ日差しの色を変え始めている。


(あと三日……)
 雪路は、心の内で呟く。
(あと三日か……)
 あと三日で、皆変わる。
 若頭の伊吉が今の親分に取って代われば、変わるはずだ。
 商売の方ももっと益が上がるようになる。
 やくざどものことにしたって、年寄り連中ばっかりが大きい顔をすることもなくなるだろう。
 特に雪路にとって、後者は大事であった。
 そりゃあ俺はまだ若輩ガキだが……もっと幅を利かせてもいいはずの兄貴分たちだって何人もいる。
 そういう者を上役として使おうとしないのはやっぱり年寄りどもの頭が固いからだ。
 と、雪路は常々思っているのである。
 今のところ、ことは順調に運んでいる。
 見張れと言われて、様子を探っている年寄り衆の博徒にもばれてはいないようだし……
 雪路は足を止めた。
「……」
 今、妙な物音が聞こえた気がする。
 ぐるっと辺りを見回してみるが、俊三の屋敷の庭はとんでもない荒れ庭だ、誰が潜んでいても不思議は無い。
 軽く身構えた。
 てっきり、それは庭から来るものだと思っていた。
 いな
「だっ、誰だ!」
 雪路は、庭から来るものだと思っていたので、目の前で屋敷の塀を乗り越えて姿を現した人影を見て若干動転した。
 人影が塀の上から雪路に一瞥をくれる。
 白い小袖袴に、濃い色の手甲脚半を身に付けた男の背で長い三つ編みが揺れた。


 上から下まで、着物から股幅巾まで深い紺色、といういつも俊三の屋敷を訪れるときの格好で、蛇骨は屋敷の裏口をくぐった。
 ちくしょう、と、口には出さないが胸の内で毒づく。
 今日は手紙の使いではない。
 そもそもその使いだって、好き好んでやっていたわけではない。
 一番初めに、俊三から文が寄越されたとき、その返事を届けるのにたまたま手が空いていた蛇骨が使いに出された。
 そうしたら、
「同じ人間が使いにいった方が向こうにも分かりやすくていいだろう」
 と、煉骨が余計なことを言ったために、こう何度もこの屋敷に通うはめに至ったわけだ。
 だいたい面倒臭いことは嫌いなのである。
 使いだけならまだしも、出かけるたびに一々着替えなければならないというのが面倒だ。
 蛮骨が言うには、
「そんな格好で行ったら、おまえ、はいどうぞやってください、って言ってるようなもんだぞ」
 いつもの蛇骨の服装を指して、そういうことを言うのだが、蛇骨が素足をさらして往来を歩き回っているのはいつものことだ。
 そこまで言うほどの何が、昔あったというのか。
 大兄貴がケツ狙われるなんて、はっきりいっていつものことじゃねえか。
 いけしゃあしゃあとそんなことを考えながら、蛇骨は屋敷の庭を通り抜けようとその中に足を踏み入れる。
 それにつけても、俊三の寄越す文の内容を思い起こす度に気が滅入る。
 心配はないだろうと思ってはいても、何となく不安になる。
 不安といえば、かんざしは見つかったのかどうか。
 あのかんざしは、高かった。
 随分値が張ったのだ。見つからなかったと言われても諦めるに諦めきれない。
 何が何でも、帰りにはあのかんざしを挿して帰らなくてはならないのだ。
 そのために今日はわざわざ来たのである。
 ちなみに、今はそのかんざしの代わりに黒塗りの箸を二本使って、蛇骨は髪を纏め上げている。
 庭の中を僅かに進んだところで、背後から声を掛けられた。
「来てくださいましたね」
 気配を伺いつつ振り返ると、あの男である。
 今日もう一度来いと、言った男であった。
「来たよ」
 できるだけ感情を表に出さない声で、蛇骨は言った。
「俺のかんざし、見つかった?」
 男は薄く笑っている。
「仲間に探すように頼んでおきましたから、おそらく見つけているでしょうよ」
「そうかい。じゃあそのお仲間んとこに連れてってもらえますかね」
「こちらに……」
 男は後を向いて、蛇骨の先に立って歩き始める。
 屋敷の裏口をくぐり外へと出た。
「外に?」
 男の後をついていきながら蛇骨が問う。
「あの屋敷にいるのは、親分と俺と年寄りが少し、それくらいですよ。他のもんは外に住んでるし……まだ若いもんは港に残ってるはずですしね」
「港……」
外国そとの船の積荷を下ろしてるんですよ」
「日が暮れてまで精が出るこってすね」
 他愛も無いことを話しながら、港へと出た。
 潮の強い香りが鼻につく。
 いつもの着物を着てなくて正解だったかな、と、蛇骨は思った。
 こんな潮風に当たってたんじゃ着てるもんが潮臭くなっちまうに違いない。
 男が……伊吉が、近くを歩いていた若い衆に声を掛けている。
「ああ、通さんなら向こうの納屋の傍で見ましたよ」
 言ってから若い衆は蛇骨に視線を投げてきた。
「見ねえ顔ですね」
「客人だ」
 若い衆が教えた方向へ、さらに伊吉と蛇骨は向かっていく。
 程なくしてその、納屋、が見えてきた。
 小さくて薄汚れた感じのする納屋である。
 ひょっとすると、今はもう使われていないのではないか、そう思えた。
「通」
 伊吉が、納屋の傍にある大きな石の上に腰掛けている男を呼ぶ。
 通は、沈んだ表情でどこか遠くを見つめていた。
「…兄哥」
「何してるんだ、こんなところで」
「いえ、ちょっと一人になりたかったもんで……」
 そう言って、ようやく気がついたように蛇骨を見た。
「その人ですか」
「ああ。頼んでおいたものはどうした」
「へい、見つかりましたよ」
 淡々とした口調で喋りながら、通が懐を探る。
 探り出したかんざしを掌に乗せて、伊吉と蛇骨に見せる。
 蛇骨が、安堵したらしく頬を緩めてそれに手を伸ばした。
 その間に伊吉と通がそっと目配せし合ったのに、気がつかなかった。
 手に取ったかんざしを髪に挿した、その蛇骨が一瞬無防備になった刹那、いきなり伊吉が蛇骨の腰の辺りを掻き抱いて、腕の中で声を立てられる前に横の納屋の中へと姿を消す。
 通は何事も無かったかのように納屋の戸に外からつっかえ棒をして、また、傍にある石の上に腰掛けてどこか遠くを見つめ始めた。


(何やってんだ、通の野郎……)
 独りもう使わないような納屋の傍でぼーっとしちまって。
 嫌でもさっき聞いた話が頭の中に甦ってくる。
 あんな顔をして嘘をつくような男じゃない。通の話は本当のことなのだろう。
 藤袴は目を細め、眉を寄せて別の納屋の陰から通の姿を見ていた。
 一年間も黙っていたのだから、人に言いたい話ではなかったはずだ。
 それを何故、俺に話したのか……
 あの男は俺に何が言いたかったのだろう。
「…おい藤袴」
!?
 いきなり体の横からひそめた声で呼ばれて、藤袴はびくっと身体を震わせた。
「…あ、なんだおめえら」
 尻からげをした若い衆が四人ほど、藤袴を囲むようにして集まっている。
「通さんが気になるのか?」
 その内の一人が言った。
「…まあな。どうも今日の昼頃から様子がおかしいんだ」
「やっぱりそうか。俺たちも、そう思ってさ」
 言いながら、一人がこそりと納屋の陰から通を盗み見る。
「そういや」
 別の一人が言う。
「さっき若頭が通さんを探してたようだったぞ」
 藤袴は、どきりとした。
「兄哥が?」
「おう。後ろにえらく見目のいい、そのくせやたら地味な格好なりした男連れてよ」
「この辺りのもんか?」
「いや、若頭が言うには客人だって……」
「客……」
 何のことだろうか。店の方の客なのか。
「兄哥は通と会ったのか」
「さあ、そこまでは見届けてねえよ」
「…そうか」
 どうやら、自分の知らないところで何かが起こっているようだ。
 そんな気がして、藤袴は遣りようの無いはがゆさを覚えて強く下唇を噛んだ。

「あっ……ぅ」
 床に頭から押さえつけられた体勢で、蛇骨が掠れた声を洩らした。
 右腕の肩と肘の関節が、
 みし……
 と嫌な音を立てる。
「て、てめえっ、何のつもりだ……」
「……」
 伊吉はにんまりと笑んだまま、さらに蛇骨の右肘を押さえ込んでいる左脚を引く。
「ぃっ、う……」
 うつ伏せになっている蛇骨の体の右隣で、伊吉は尻を床に着け、蛇骨の右腕をねじり上げてひねった上で、両脚で挟むようにしてその肘を押さえ込んでいる。
 右手が蛇骨の右手を押さえ、左手は逃げられないようにうつ伏せの体の向こうへ着く。
 蛇骨の右腕に相当の負担をかける姿勢である。
 相当というのは、関節が外れたり、骨が折れたりということも考えられるくらい、という程だ。
「っ……」
 みしみしと嫌な音を立てる右腕は押さえつけられたままぴくりとも動かない。
 体の他の部分も、どう押さえればこうもがっちり固められるのだと思いたくなるくらい、蛇骨の力ではどうにもならない押さえ込まれ様だった。
「あんた、いい顔して痛がってくれるなぁ」
 興奮した声で伊吉が言う。
「我慢がならねえや」
 伊吉の左手が蛇骨の脇腹を這いずるように、撫でた。
 そしてその手は腹の下に潜り込み、薄い股幅巾の布の上から脚の間を、
「あっ!」
 撫で回す。
 存外細やかな指の動きが、そこをいらう。
 僅かに後ろの柔らかいところまで指先が伸びてきて、蛇骨が、
「うっ……」
 と、その感触にとも、腕の痛みにともつかない呻き声を上げる。
 実際、腕の痛みは凄まじかった。
 いつ肘から先が折れて曲がらなくなってもおかしくないような激痛が関節に走る。
 骨の軋む気味の悪い音が、一時前より大きくなってきているような気がする。
 迫るように痛みが鋭くなって、関節の限界が近づいてくるのが分かるように、二の腕や前腕やその周りの筋肉が引き攣ってくる。
 股間で動くてのひらと指が、蛇骨の一番気持ちのいいところを丁度良い圧で撫ぜ上げた。
 蛇骨が濁った声で半ば悲鳴のような声を出した。
「あぁ……っ!」
 腹の底から搾り出して、咽喉で引っかかって惰性で出てきたような声で、そのまま呻く。
 あと一秒か二秒長ければ肘が脱臼していただろう。
 一番痛いところまでねじり上げてから、ようやく伊吉は蛇骨の腕を離した。
 力が抜けたように床に落ちた右腕が、痛めつけられたせいか、がくがくと痙攣している。
 伊吉はその場に立ち上がり、蛇骨の肩を抱えて上体を起こさせた。
 そして俯いたままの白く細い顎に手を当てて、上を向かせる。
 そのとき、ようやく蛇骨は伊吉が着ている物の裾をゆるめていることに気がついた。
(……この野郎)
 じ開けるように蛇骨に口を開かせて、伊吉はすでに先走ってさおまで滴らせている己の逸物をそこに押し込み、軽く前後に動かした。


 雪路が踏み込んできたのをいともあっさりとかわして、蛮骨はやや広めに間合いを取った。
 肩をすくめて言う。
「ったく、相変わらずあの爺ぃは物騒な野郎ばっか集めてんな」
「うるせぇ、何だてめえは」
「爺ぃに用があって来たんだよ」
「…親分のことか」
「そうだ」
「どうせただの用じゃねえんだろうが」
「ただの用だよ」
「ただの用事で来る野郎が塀なんか越えるか!」
 再び雪路が蛮骨に掴みかかる。
 今度はそれを受ける気らしく、蛮骨も重心を落として身構えたが、
(…威勢がいいわりに筋の悪い男だな)
 雪路の動きを見てつまらなそうに溜め息をついた。
 雪路が丁度間合いに入るところを見計らって右脚を蹴り出す。
 その足が風を切って胸の辺りに飛んできた瞬間、
「うっ……」
 と、雪路は呻いた。
 蛮骨の足の裏と身体が触れた刹那、太い杭を打ち込まれたような凄まじい衝撃が上半身を貫いた。
 肋骨あばらぼねが何本も折れる音が自分でも聞こえた。
 どっ、
 という鈍い音とともに雪路が後ろに倒れ込む。


「おい藤袴…さっきから何か変な音が聞こえる気がするのは気のせいか?」
「気のせいじゃねえよ」
 できれば気のせいであって欲しいのが本音ではあるが。
 通の傍の納屋の中から、先程からひっきりなしに物音がする。
 だが通は、まるでそれが聞こえていないかのように、ただぼうっとどこかを眺めている。
 聞こえていないはずはない。
 だからつまり、通は納屋の中で何が起きているのか、知っているのだ。知っているから何も言わない。
(何だっていうんだよ……)
 今すぐにでも飛び出して通を問い詰めたい衝動を押さえつけるように、藤袴は強く唇を噛んだ。


 唾液で濡れている口の中の粘膜が擦られる度に、
 ち、
 ち、
 ち、
 と、粘質的な音が口内で響く。
 頭を押さえつけられて咥えさせられながら、蛇骨はじっと己の右腕に意識を集中させていた。
 指の先を軽く曲げたり、伸ばしたりする。
 手の動きにおかしなところは無いようだから、神経は無事らしい。
 痛めつけられた肘の関節も、問題なく動きそうだし痛みもやわらぎ始めている。
 ったくどうしてこんなことに……俺はただ蛮骨の兄貴の使いで来ていただけで、今日はただ落としたかんざしを取りに来ただけだってのに。
 しかしそれにしても乱暴な野郎だな、と、自分のことは棚に上げて、蛇骨は思った。
 こう奥まで突っ込まれるとむせそうになるじゃねえか。
 そもそも、好きでもない男にこんなことをされるいわれはない。
 惚れた男のなら、そりゃこっちから喜んで咥え込んで舐め回してやる。
 蛇骨は右手を握って、ぐ、ぐ、と何度か力を入れた。
 何とかなるだろう。
 そうしてから、口の中のものに、それを喰いちぎらんばかりに思いっきり歯を立てて、噛み付いた。
 一瞬、伊吉の身体が引き攣って強張った。
 そしてそれから二つか三つ数えるほど経ってから、
「いっ、あっ、ぎぁゃ……っ!!
 人の悲鳴とは思えないような、半分舌のもつれた呻き声のような奇声を上げて、伊吉は背から床に転がった。
 顔を真っ赤にして、身体を丸めて股間を押さえている。
 蛇骨は立ち上がって、その場に血の混じった唾を吐いた。
「なめてんじゃねえよ、てめえ」
 伊吉を見下ろして、ガンを飛ばした。
「俺に咥えてもらおうなんざ十年早ぇんだよ! 突っ込んでもらうにゃもう十年、俺の後ろに突っ込ませていただくにゃ百年早ぇぜ」
 伊吉が涙のにじんだ眼で睨み返してくる。
 蛇骨だって男である。
 伊吉がどれくらい痛い思いをしているのか、それこそ痛いほど分かる。
 しかしだからこそ楽しいのだ。好みではないとはいえ、大の男が半泣きになって己の股間を押さえている。
 これで伊吉がもし好みの男なら、ガンを飛ばして啖呵をきる前に有無を言わさず強姦していたことであろう。
 蛇骨は、胸の…胃の腑の真上辺りにとどってくる得もいわれぬ感触を飲み下すように、深く呼吸をした。
「…たまんねえな」
 若干興奮した声音で言ってから、納屋の戸の方へと身体を向けた。
 身動きの取れない伊吉は放っておいて外に出るつもりであった。
 しかしその時、急にその戸が開いて眼の細い男が顔を出した。
 あの、蛇骨にかんざしを渡した男だった。伊吉の悲鳴を聞いて、中が気になったらしい。
 男は中の様子を見て、何が起こったのか悟ったようだった。
「てめえっ!」
 いきなり蛇骨に踊りかかってくる。
 それをかわして、蛇骨は身軽に後方へ下がる。
「てめえそこの野郎とぐるだったんだな」
 蛇骨が伊吉を指して通に言う。
「うるせぇ!」
 再び通が間合いを詰めてきた。
 普段なら得物の都合で接近戦はあまりしないはずの蛇骨が、しかし今回は自らも通の懐に飛び込む形で間合いを縮める。
 にやにやと笑いながら、通の顔を近い距離で遠慮なく見つめて、
「おめえ色っぽいな、顔」
 と、言うなり正拳を通の咽喉元へ突き入れた。
「…っ!」
 通がぎりぎりでそれをよけてもう一度間合いを取ろうとするのを、追うように蛇骨がその膝の裏を狙って足で払う。
 斜め前のめりに倒れ込んだ通の手の甲の上に、蛇骨の足の裏が触れた。
 そのまま思い切り力を込めて踏みつけられて、通が腕の筋肉を引き攣らせて呻き声を上げる。
 ほう、と、蛇骨が溜め息をつく。
「いい声だなぁ」
 さらにぐりぐりとえぐるように足を動かしながら、
「得物がありゃなぁ……」
 さも残念そうに、呟いた。
 そんな蛇骨の後姿と、床に倒れている通の姿を見ながら、伊吉は静かに身体を起こした。
 股間からは未だ出血が止まらず、赤いものがだらだらと流れていたが、痛みは多少ましになってきている。
 まさか、あれほど遠慮なく噛みつかれるとは思わなかった。
 今まで、何度か軽く歯を立てるくらいはされたことがあったが、あんな、喰いちぎられそうなくらい強烈なのは初めてだ。
 まったく、膿みでもしたらどうしてくれるというのか。
 伊吉は、気配を立てないように気を配りながら、傍の壁に立てかけてあった古びた角材を一つ取り上げた。
 蛇骨はまだ通の手を踏みつけたまま、通が苦痛に呻くのをたのしんでいるらしい。
 …いい男だったが、こうなっては仕方がない。
(後で念仏くらいは唱えてやるさ)
 無駄がない程度に角材を振りかぶって、蛇骨の後頭部を狙って振り下ろした。
 そして蛇骨の頭蓋が割れる前に、しかし通が泣き声に近い悲鳴を上げた。
「ぐっ、あぁっ……!!
 それと同時であった。
「ぅくっ……」
 伊吉は、呻き声というより、掠れた音で喉笛のどぶえを鳴らして真っ直ぐ後ろに倒れ込む。
 角材は蛇骨の身体に触れもせず、乾いた音を立てて地面に転がった。
「馬鹿が」
 恐ろしく柔軟な体捌たいさばきで伊吉の顎の下に回し蹴りを食らわせた蛇骨が、蔑むような口調で言った。
 そのとき軸脚にされた方の足の下にあった通の手の甲の骨は、蛇骨の全体重をかけられて、音を立てて砕けていた。
 顎に蹴りを食らった伊吉は、脳震盪を起こして失神してしまったらしい。ぴくりとも動かなかった。
 手を砕かれて、泣いて痛がっている通を名残惜しげに見つめながら、蛇骨はようやく足を退けた。
「まあ、殺されなかっただけましだと思えよ」
 冷たく言い放って蛇骨が納屋を出ると、すぐに向こうから四、五人の若い男が血相を変えてこちらに駆け寄ってくるのが分かる。
 その中で先頭にいる男が、蛇骨の身体の向こうにある納屋の中の様子を見て、一気に顔を上気させる。
「てめっ…兄哥と通に何しやがった!!
 他の一人が言う。
「藤袴、こいつだ。若頭が客人だって言ってた……」
 それに返事をする前に藤袴は蛇骨に掴みかかっていた。
 蛇骨はそれをよけながらうんざりしたように、
「一体何なんだよ、強姦野郎の次は頭に血が上ったのが四人も五人も。ったく最近ついてねえなぁ、俺」
 と、言いざま藤袴の顔面に左手で掌底を突き込み、さらにそれを追って逆の拳で咽喉を突いた。
 横から飛んでくる回し蹴りを身を低くして蛇骨がよけると、蹴りを放った男はたたらを踏んで、その隙を突かれて逆に蛇骨に胸板に蹴りを入れられた。
 地面に転げながら、藤袴は、その時その蹴られた男のあばらが折れる音を聞いた。
(何だこの男は……)
 男五人相手にしても怯むどころか、こっちの方がやられそうだ。
 見かけは優男風のくせに、どう考えても喧嘩の素人ではない。
 咽喉を殴られた衝撃にむせながら起き上がろうとしたところを、蛇骨に力いっぱい腹を踏みつけられて藤袴は強烈な嘔吐感を覚えて再び身を折った。
「てめえらいい加減にしねえと、頭かち割って脳味噌垂れ流させるぞ!」
 蛇骨が苛ついた声で啖呵をきった。
 丁度また、男が一人股間を蹴り上げられて悲鳴を上げて倒れたところだった。

「ったく、派手にやりやがって……」
 俊三が苦い顔をして蛮骨を睨んだが、当人は涼しい顔をして、
「あんな変態男をのさばらしとく方が悪いんだ」
 と、言って蛇骨を見た。
「なあ、おまえもそう思うだろ?」
「まあね」
 俊三の屋敷の、俊三の部屋で、俊三と蛮骨、蛇骨が向かい合うように座している。
「……しかしおめえの弟分だけあって、腕は確かだな。正味七人、一人でのしちまったわけだろう」
「ま、丸腰同士だったってのはあるだろうけどな」
 蛮骨が言うと、蛇骨が面白くなさそうに口を尖らせる。
「どういう意味だよ」
「刀がありゃ、倍でもその倍でも楽にいけただろうってことだよ」
「……」
 俊三が微笑して言う。
「随分手下てかの腕を買ってるな」
「一応、うちの斬り込み隊長だからな。自称だけどよ」
「自称か」
 声を上げて俊三が笑った。
「そういう言い方はねえじゃねーかよ、兄貴」
 俊三が、笑いながら、
「いや、確かに多勢に無勢であれだけ凶暴になれる野郎はそういねえよ。斬り込み隊長にはもってこいかもしれねえな」
 と、言うと、蛇骨はますます口を尖らせる。
 港での騒ぎを聞きつけて、それまで屋敷にいた蛮骨と俊三が連れ立って例の納屋に駆けつけたときには、すでに蛇骨以外の者は立ってすらいなかった。
 血まみれになっているか、あるいは己の反吐へどの中でのた打ち回っているか、そのどちらかである。
「何やってんだ、蛇骨、おめえ……」
 蛮骨が訊くと、
「知らねーよ、こいつらが先に手ぇ出しやがったんだ」
 倒れている男たちを指差して、蛇骨は言う。
 とりあえずその場でじっとしていてもらちが明かないということで、三人は俊三の屋敷へと戻り、それから蛇骨の話を聞くと、俊三と蛮骨の二人はすぐに納得したらしかった。
「伊吉も、あれが無けりゃあな……」
 俊三が溜め息をつく。
「一人気に入った男ができると周りが見えなくなる。あれが無けりゃ、俺だって、跡を継がせようと思ったさ」
 そう言って、ちらりと蛮骨を見遣る。
「言っとくけど、どんなに口説かれたって俺はあんたの跡継ぎにゃならねえぜ」
「どうしても駄目か」
「どうしてもだよ」
「悪い話じゃあるめえ」
「何て言われようが、ならねえもんはならねえよ。俺は今の生活が気に入ってんだ」
「傭兵がか」
「おうよ、暇しねえで済むしな。だからさ、俊三親分、もうふみつけんのはやめてくれるかい」
「……」
「俺だって、仲間に睨まれながら漸く抜け出して来たんだぜ。今、仕事忙しいんだ」
「……分かった」
 残念そうに、俊三が頷く。
「おめえなら、上手くやってくれると思ったんだがな。いつまでも年寄りが大きい顔してちゃならねえし、かといって、そうそう後を任せられるほどの器の若いもんも一家にはいねえ」
「でも俺は部外者だろうが。それじゃ誰も納得しねえだろ、いきなり知らない顔がかしらになっちゃ……」
「そうでもねえさ。おめえはほんの一時だったが、俺の下にいたんだからな。若え連中には知らねえ顔でも、年寄り連中には覚えてる奴もいるだろうよ。何せ、あの伊吉を半殺しにしたのはおめえが最初だったからなぁ」
「…思い出したくもねえ、そんなこと」
 と言って、ぷい、と、蛮骨はそっぽを向いた。
 俊三が蛇骨に視線を向けた。
「この兄分にしてこの弟分ありか」
「…親分さん」
 蛇骨が口を開いた。
「謝るつもりはありませんがね、あの野郎どもをのしちまったことは……」
「ああ、謝らなくていい。むしろこっちは感謝してるくれえだから」
「…どういう意味です」
「伊吉の野郎、俺が跡目に奴を選ばないってんで、腕ずくでくるつもりだったらしいんでな。通も、藤袴も、それから蛮骨、おめえが蹴り食らわせた雪路も、その仲間だったんだよ。奴ら、俺が知らんとでも思ってたのか……」
「……」
「ところで、おめえよ」
 俊三が、にこっ、と笑って蛇骨の方へと身を乗り出してくる。
「どうだうちの一家に入らねえか。それだけの腕だ、すぐにでも若えもんのまとめ役に……」
 しかし俊三が最後まで言い切らないうちに、蛮骨が顎で蛇骨を指しながら、声を大きくして割って入った。
「やめてくれよ、親分、これは俺のだ」
「兄貴……」
「だいたい、こいつだって気に入った男ができると周りが見えなくなるぜ。しかもその男を殺さなきゃ済まねえってんだから、伊吉よりずっとたちが悪ぃや」
「……兄貴」
 後から付け足された蛮骨の言葉に、蛇骨が、眉間に皺を寄せて小さくこめかみを震わせた。
 そしてせきがきれたように、顔を上気させて大きな声を上げる。
「ほっといてくれよ! 持って生まれた性分なんだからしょーがねえだろ!!
「ははははは……!」
 その途端、豪快な笑い声が響き渡った。
 見れば、俊三がそれは可笑しそうに笑っている。
「分かった分かった、そう仲がいいんじゃ、貰うわけにゃいかねえな」
 蛮骨が多少戸惑った表情になって言う。
「仲がいい、って…俺たちは別に……」
「いいじゃねえか。俺はおめえが羨ましいぜ、そういう仲間がまだいてよ……年ぃとると、そういう仲間はどんどん減ってくのさ。敵ばっかり増えてな、一家の外側にも内側にも」
「……」
「そういうことに疲れて、俺ももう隠居がしたかったんだが、こうなっちゃしょうがねえか」
「…どうするんだよ、跡目は」
「なに……」
 言いながら、俊三はやおら立ち上がり、二人に背を向けた。
「五つの孫が一人前になるまで待つさ。蛮骨、おめえも女にゃ気をつけた方がいいぞ。いつ子供抱えてやって来るか分かんねえからな。そっちの弟分の方は、その心配も無さそうだがよ……」
 気をつけて帰れよ、と、俊三は二人を振り返らずに言ったが、その体力の衰えを感じさせない広い背中は、しかしどこか寂しそうであった。
「頭も楽じゃねえんだな」
 と、蛇骨が呟くと、蛮骨が無言でそれに頷いた。

(了)