影狩り

「なあ蛮骨の兄貴、浮気すんなよ」
 言いつつ蛇骨は背の皮袋へと刀を納めた。
 蛮骨はちろりと視線を蛇骨に向け、拗ねたように呟く。
「何が浮気だよ。抜け駆けしてるてめえにそういうこと言われたくねえや」
「しゃーねーだろ、仕事なんだしよぉ」
「じゃあ俺に替われよ、俺が合戦場に出るから」
「やだよ。俺だって戦してえもん」
「だったら文句言うな。女買おうが囲おうが俺の勝手だろ」
「げっ、兄貴女囲うつもりかよ。信じらんねえ」
「ああもう、例えだよ、例え。仕事の最中に女なんか囲えるかよ」
「あ、そうか」
 安堵したように息をついて苦笑する蛇骨を横目に見ながら、蛮骨がちぇっ、と舌を打つ。
「なんでこの俺が、いくら敵方のとはいえ忍者退治なんかしなきゃなんねぇんだ」
「まぁそう気ぃ落とさなくても、兄貴、案外その細人しのび野郎にもいい男いるかもしれねえし」
「いても嬉かねえよ! いい女ならともかく…」
 と、言いかけて、蛮骨の声が尻すぼみに潜まっていった。
「俺はおめえと違ってそのがねえからな」
「兄貴?」
 その蛮骨の様子をいぶかしんで、蛇骨も同じように声を潜めながら兄貴分を呼ぶ。
 蛮骨がゆっくりと眉をひそめていき、それとともに、やはりゆっくりと後ろを振り返った。
 蛮骨の目が見開かれた。
「畜生!」
 叫び様、蛮骨は傍らにあった蛮竜を取り上げ、被せてあった布袋を取り去った。

 ひゅんっ

 と音を立てて、何かがこちらに向かって投げられたのが分かった。

 きんっ

 と金属音が聞こえて、それは蛮竜で受け止められたらしい。
 刃先を鋭く研ぎあげられた、小柄こづかであった。
「兄貴」
 蛇骨が低い声で蛮骨を呼んだ。
 蛮骨が無言で肯くと、蛇骨は背の刀に手を掛ける。
 振りぬく。

 シャッ

 と、小気味良い金属の擦れる音とともに蛇骨刀の刃が伸びた。
 蛮骨と蛇骨が立っていた位置からちょうど一間いっけんほど離れた木の陰に、刃先が飛ぶ。
 そこに人の影が覗いた。
(やった)
 にやりと蛇骨が唇を引く。
 だが次の瞬間、突然刃の動きが乱れ、蛇骨の右腕がきしんだ。
「ぐっ」
 すぐさま蛇骨は手首を返し、刃の動きを整えようとする。
 しかしその間に、人影は刃の先から逃げ出していた。
(上手い…)
 蛮骨が眉を寄せて小さく唸る。
(刀の動きを変えやがったか。それも、小柄一本で)
 蛇骨の刀の刃は、基本的に縦に伸びていく。
 だから、横からの力には比較的弱いはずではある。
 とはいえ実戦で、眼前に飛んでくる刃に小柄一本で横から力を加えるなどということは誰にでも簡単にできるというわけではあるまい。
 人影はまだ二人から離れてはいなかった。

 ひゅんっ

 と、また小柄が投げられる。
 それと同時に人影は蛮骨の目の前に姿を現した。
 黒装束。
 左手に小柄を逆手に握っていた。
 蛮骨は蛮竜の陰に身を屈め、飛んできた小柄をかわす。
 と同時に、その低い体勢から片足を黒装束の水月(鳩尾)を狙って蹴り上げた。
 周りの大気が唸るほどの勢いを持った足技であったが、さすがにこれは振りが大きすぎたか。
 黒装束もその動きに気づいて身を引き、両腕で腹部を庇った。
 蛮骨の脚は黒装束の左腕を強く蹴りつけ、それでもその黒装束は、五、六尺ほど後方に蹴り飛ばされた。
 うっ、と微かに呻き声が聞こえた。
 蹴り応えは軽い。
 女?
 黒装束は地面に叩きつけらながらも転がるように身を起こし、一瞬蛮骨の方を振り返った。
 目が合った。
「……」
 しかしそれも僅かな間のことで、黒装束はようやく蛮骨と蛇骨から離れていった。
 音も立てずに去っていった襲撃者を見送って、蛮骨と蛇骨は大きく息をつく。
「なんだ、今の」
「蛇骨、てめえはもう合戦場に行きな。あいつはどうも俺の領分だ」
「細人?」
「そんなところだ。こりゃなかなか、この仕事も面白くなりそうだぜ」
 そう言って蛮骨は口の端を吊り上げる。
「わーった、じゃあ兄貴、俺は煉骨の兄貴たち追っかけて合戦場行くわ。兄貴くれぐれも…」
「何だよ」
「浮気すんなよ」
「余計なお世話だ!」
 蛇骨は、おーこわこわ、と、足早に蛮骨の元を去っていった。


 睡骨はどこか落ち着かないように視線をあっちへやったりこっちへやったりしながら、少しずつ杯の中の酒を口の中へ流し込んだ。
「なあ、蛮骨の大兄貴」
「なんでぇ睡骨」
「本当にこんな高そうな店に泊り込んじまって大丈夫なのか? 座敷の部屋だし、それにこの杯も酒も随分値が張りそうな…」
「大丈夫だって。ここを仕切ってる遊女が俺の知り合いだから格安で泊めてくれる。多分」
「多分って…本当に大丈夫なんだろうな」
「泊めてくれなくても泊まるから気にすんな。それより、霧骨はどこ行った」
「霧骨ならさっき外に…女物色するとか言ってたが」
 と、睡骨が部屋の障子の方を指したとき、その障子戸が、がら、と開いて女が一人顔を出した。
「やだ、本当に居座ってる」
 二十二、三くらいの髪の長い女が蛮骨の方を見て困ったような顔をした。
 蛮骨が、むっとしてその女を睨み返す。
「そんなに嫌な顔しなくてもいいだろ。一応客だぜ」
「遊女屋で値切る客なんてお客じゃないわよ」
「いいじゃねえか、昔のよしみで安くしろよ」
 溜め息をつきながら女は部屋の中に入ってくると、静かに障子を閉めて、差し向かいで座っていた蛮骨と睡骨の間に腰を下ろした。
 女はまるで男のような、小袖に袴という姿で、ただ羽織った辻が花染めの蒼い小袖だけが彼女に鮮やかな色を添えていた。
「んにしても、三夜みよ、おめえも色気の無い格好してるな、遊女のくせに」
「ほっといて頂戴。…こちらはお仲間?」
 三夜と呼ばれた女が睡骨の方を指して蛮骨に尋ねた。
「俺の弟分で睡骨だ。もう一人、今は外を出歩いてるらしいが霧骨ってのもいる」
「ああ、さっき見かけたわ。あの白装束で小さいのでしょ」
「そうだよ」
 蛮骨は手に持った杯に口をつけた。
「こりゃまた高い酒持ち出してくれたわね」
「高いだけあって、美味いぜ、やっぱり」
「そりゃそうでしょ。…それで、まささん今度はどういう了見でうちに泊まり込むおつもり?」
「今は蛮骨」
「あらそ。じゃあ蛮骨の兄さん、六年ぶりでいきなり現れたかと思ったら泊め賃まけろなんて、ちょっと虫が良すぎるんじゃないの」
「泊まるだけが駄目ってんなら女ぐらい買うぜ」
「そういう問題じゃないのよ」
 と、三夜がずいと蛮骨に詰め寄ると、蛮骨はその三夜の顔をまじまじと見つめ、うーんと唸った。
「てめえもすっかり女っぽくなってんなぁ、お三夜。ちょっと嫁き遅れちまってるみてえだけど」
「大きなお世話よ! ついでに言っとくと、私も今は名前が変わってるの」
「へぇ、何」
笹早ささはやよ」
「笹…また小洒落た名前つけたもんだなぁ。なんだ、遊女の頭とかになるとやっぱそういう名前付けんのか」
「知らないわよ」
「なあ笹早」
「何さ」
 にこ、と蛮骨が笑った。
「あの時のこと、忘れたとは言わせねえぞ」
「…なんのことかしら」
「とぼけんな。六年前、俺に頼んだ仕事の報酬半分踏み倒して逃げたのはどこのどいつだ」
「…どこの誰よ」
「ここにいるおまえだよ!」
 はぁ、と笹早が大きく溜め息をつく。
「兄さんそういうことはよく覚えてるのね。文字は満足に覚えられなくても」
「うるせえ」
「仕方ない、泊めてあげるわよ。ただし」
「何だよ」
「うちのに手ぇつけたらその分はちゃんとお金払ってもらいますから」
「…けちだな」
「私たちはそれで食べてんだから。嫌なら手は出さないことね」
「ちぇっ」
 蛮骨が残念そうに舌を打つと、笹早は、ふう、と息をついて立ち上がった。
「じゃあ、あんまり面倒ごとは起こさないでよ」
「なんだ、もう行くのか? しゃくの一つくれぇ…」
「忙しいのよ」
 言い捨てて、笹早は立ち上がると静かに障子戸を開けた。
 やはり静かに戸を閉め、濡れ縁を歩いて去っていく音を聞きながら、蛮骨はやれやれと肩をすくめる。
「六年も経つと、女ってのは可愛げがなくなっちまうもんかな」
 そして急に真面目な顔になって睡骨を見た。
「どうだった、睡骨」
「…特に妙なところは無かったと思うが、あの笹早とかいう女には」
「そうか。ならとりあえずはいい」
「あの女が、怪しいのか?」
「まあな。あいつはここら一体を裏で締めてる女頭だ。敵の細人ども匿っててもおかしくはねえだろうし」
「なるほど」
「目ぇ離すなよ。あの女からも、ここの遊女連中からも」
「ああ、分かったよ」
 睡骨が杯を口に運んだ。
 蛮骨も空になった自分の杯に手酌で酒を注ぎ、それを静かに口の中へ流し込んだ。
「いい酒だ」
 そのとき、がらり、と障子戸が開き、霧骨が黙って部屋の中に入ってくるのが見えた。
「蛮骨の大兄貴、この店の間取りと、周りの店と、調べてきたぜ。間取りは…」
 睡骨の横に腰を下ろし、霧骨が語り始めた。


「なあ、大兄貴、あの笹早ってぇ女は一体何もんなんだよ」
「…あの女は」
 言いながら、蛮骨は足を止めた。
 蛮骨と霧骨、二人、朝の花街を並んで歩いていた。
 朝の花街は精気が抜けたようなけだるい空気が漂っていて、歩を進めるたびにそれが脚に絡みついてくる。
「今は、裏ではそれなりに名の通る遊女だな、まあ」
「女で、筋者だってかぁ」
「そんなところだよ。極道連中相手にしながらここら締めてんだから、まあ筋者だぁな」
「どういう知り合いなんだよ、大兄貴とは」
「なに、昔、仕事一つ頼まれただけだよ」
「へーぇ」
 間延びした声で相槌を打ちながら、霧骨が蛮骨を見上げる。
「何の仕事かは聞かねえ方がいいのかなぁ?」
「妙な気きかせんな。今と似たようなことだって」
「なんだ。俺ぁまた色っぽいことでもあったかと思ってたんだけどよ」
「そりゃまあ、俺があの女に会ったのはあいつが遊女になってからだったけど、あの女、その前は本物の極道筋にいたらしいからな。あんまり色事どうこうな女じゃなかった」
「本物の極道筋から、なんでまた遊女なんかに…」
「右肩を壊しちまったんだとよ。それでそっちの方にはいられなくなったんだ」
 なるほどなぁ、と霧骨が肯いた。
「それじゃぁあの女、遊女になってからまたのし上がって来たわけか。すげぇなぁ」
「所詮、力が物をいう世界だからよ。汚えことも山ほどやってきたんだろうさ」
「それで、あの女が、敵の細人衆を匿ってるんだって?」
「そういうこともあるかもしれないってぇ話だよ」
「大兄貴は、どう思うよ。何か思うところあんのかぁ?」
「俺か?」
「兄貴の勘は働かねえかい」
「…まあまず、あの女、黒だな」
 それを聞いて、霧骨がにまりと笑った。
「厳しいよなぁ、昔馴染み相手でもよぉ」
「おめえが言えって言ったんだろ」
「へへへ、大兄貴が黒って言うなら黒かもなぁ」
「そんなに俺の勘は信用できんのか?」
「ま、町医者の見立てよりゃずっと信用できるんじゃねぇのか」
「そんなもんかね…」
 蛮骨は己の背に垂れた下げ髪の先を指先で弄っている。
 それを見ながら、霧骨が妙な顔をした。
「ところで、兄貴、この前いつ髪洗ったよ?」
「何で、そんなこと聞くんだよ」
「いや、さっきから髪の先弄くってるからよ。汚れて気になんのかと思ってなぁ」
「…いや、別にそういうわけじゃねえよ」
 言って、蛮骨は髪の先から手を離した。
「やっぱりその髪切っちまったほうがいいんじゃねえか? 邪魔にならねえようにお下げにしてんのに、それが気になっちゃ元も子もねえ」
「別に、気になってるわけじゃねえから」
 それより、と、蛮骨は半ば強引に話題を変える。
「そろそろどっか店にでも入ってみようぜ。敵のこと探らねえと」
「ああ、そうだな。睡骨はちゃんと留守番してやがんのかなぁ」
「あいつは、おめえと違って女には強いだろ」
「…どういう意味だよぉ、そりゃぁ」
 霧骨が苦い顔をすると、蛮骨が、はは、と笑った。
「おめえももうちっと粋な格好してねえと、玄人女にももてねえぞ」
「どーせ、俺は醜男で手足も短えよ。素股の切れ上がった兄貴にゃ分かんねーだろうけどよぉ」
「おいおい、粋な格好ってのはそういうこと言ってんじゃねえぞ」
 苦笑しながら蛮骨が霧骨の方を見ると、ちょうど、霧骨は己の懐に手を突っ込んで、何やらごそごそと中を探っていた。
 声を潜めて、霧骨が蛮骨を呼んだ。
「大兄貴、あんま吸うなよ」
 勢いよく後方を振り返って、霧骨が懐の中から小振りの竹筒を一本投げた。
 どん、という音とともに煙幕が上がった。
 蛮骨も後を振り返り、方袖で口元を押さえながら身構える。
「黒装束だ」
 霧骨が呟く。
 途端、煙幕の中から黒い塊が二人の目の前に躍り出た。
 黒装束は二人に一瞥をくれると、低い姿勢を取って、霧骨の方へと間合いを詰めてきた。
 その右手には、順手に握られた小柄。
 思いの外素早い動きで間を詰める黒装束の小柄の先は、確実に霧骨の喉を狙っているように見えた。
 しかし、
(んなっ!?
 小柄の先が霧骨の喉笛を掻き切ることはなかった。
 喉を外れ、霧骨の、顔半分を隠していた白布を切り裂いて、そのまま顎を少しばかり掠めていった。
(わざと外したのか!?
 霧骨の目が見開かれた。
「っ、大兄貴、気をつけろ! 毒が塗ってある…」
 言い終える前に、霧骨はその場にうずくまった。
(ち、畜生…附子ぶしの毒か…!)
 附子とは、トリカブトのことだ。
 毒に慣れている霧骨の体は、死に至らないにはしてもそれでも全身が痙攣してひくひくと震えていた。
 霧骨の体を離れて蛮骨の方へと黒装束は身を返した。
 間合いを詰めてくる黒装束の手元を、蛮骨が蹴り上げる。
 毒の小柄が宙を舞った。
 しかし黒装束は怯みもせず、さらに間合いを詰めてきた。
 そして、
「ぐ…っ!」
 骨同士のぶつかり合う、嫌な音が聞こえて、蛮骨は後ろに殴り飛ばされた。
 黒装束の右拳が、蛮骨の左頬にまともに入っていた。
 しかし、黒装束はそれ以上蛮骨との間を詰めてはこない。
 逆に、霧骨の毒の煙幕の中へと姿を消そうとした。
「くそっ! 逃がすかよ!」
 咄嗟に、蛮骨は地面に落ちていた先程の小柄を煙幕の中へと投げつけた。
 煙幕の中の黒い影が、小さく呻いた。
「し、仕留めたのか…」
 霧骨が煙幕の方に目を凝らす。
 蛮骨が、ふん、と鼻を鳴らした。
「心の臓は外したな…左腕を掠めた」
「左腕…それなら、ちゃんと手当てされりゃ死にやしねえかもしれねえな…」
「かもな。けど、見ろよ」
 蛮骨が指差す先を、霧骨は目で追った。
「派手に尻尾残していきやがった」
「この、先は…」
「あの女の店だ」
 やっぱりか、と、蛮骨が呟く。
 蛮骨が指す先には、点々と滴った鮮血の跡が、一本の線となって二人の目の前に伸びていた。


 毒に当てられた霧骨の姿を見て、睡骨が驚いて口を開けた。
「珍しいこともあるもんだな」
「うっせ…て、てめえなら、死んでるぞ」
「おまえ、毒は効かねえんじゃなかったのか」
「これでも効いてねえ方だって…附子の毒と、何か他にも混ぜてあったみてえだ。体が動かね…」
「附子だぁ? それでおまえよく喋れるな」
「だから俺は毒が効いてねえ方なんだって…」
 そう、苦しそうに呻きながら畳の上にべったりとうつ伏せになっている霧骨の姿を見て、
「ったく、しょうがねえな」
 と、睡骨は面倒臭そうにその両手を掴んだ。
 そのままずるずると畳の上を引きずりながら、霧骨の身体を部屋の真ん中まで運び入れる。
「おい、どれくらいかかりそうだ。治るまで」
「…まあ、一晩くれえありゃ」
「それなら今布団敷いてやるから、黙って寝てろ」
「おう…すまねえなぁ睡骨、苦労をかけて」
 げほげほ、と霧骨がわざとらしく咳き込む。
「おとっつぁんがこんなだから、もう二十六になるおまえに嫁の一人も探してやれず…」
「そういう冗談を言う元気があるならさっさと寝て治せ! 馬鹿野郎」
 と、霧骨を足蹴にしながら、睡骨は、乱暴に霧骨の身体の上に布団の山を投げ落とした。
「ぐぇ、重て…」
 さらにその山積みの布団の上に腰を下ろしながら、
「おい霧骨、大兄貴はどこに行った」
 と、睡骨は霧骨に尋ねる。
「さ、笹早のところだろ…ここの店に細人連中がいるとなりゃ、あの女が匿ってるとしか…」
「…そうか。それにしてもなんだか、物足りねえな」
「溜まってんなら女の一人でも買えばいいだろ…」
「馬鹿野郎」
 のしっ、と睡骨が霧骨の上に体重を掛ける。
 霧骨がますます苦しそうに呻く声が聞こえた。
「そうじゃねえ。なんだか簡単すぎる気がするんだよ、今度の仕事は」
 睡骨が、真面目な声で問うた。
「あの勘のいい大兄貴が、こんなに簡単に済むような仕事に俺達二人もつけると思うか?」


「離して」
「離さねえよ」
 蛮骨がぐいと笹早の腕を引いた。
「痛い」
 ふん、と蛮骨が鼻で笑う。
 店の中庭に面した濡れ縁で、蛮骨と笹早は対峙していた。
 蛮骨が片手で笹早の左腕を引っ掴むと、もう片方の手をそのたもとの中へと差し入れた。
 ごそごそと探る。
「いきなり何するのよ、助平」
「ちっ」
 舌打ちとともに蛮骨は腕を引き抜く。
 左腕に傷は無い。
 あの黒装束、さすがにこの女ではなかったか。
 まあ、あの毒を塗られた小柄を受けて、平気で立っていられるはずはないが。
 そうなると、この店の中か、その周りに…
「離してよ」
「なあ、そうつんけんしなくてもいいじゃねえか」
 蛮骨の手がするりと笹早の腰に回される。
「俺ももう十五を越したんだ、六年前よりはてめえもいい思いができるぜ」
「触らないでよ」
「嫌だね」
「っ…」
 笹早が押し返す暇も無く、蛮骨が笹早の唇を自分のそれで塞いでいた。
 しかし、
「痛っ!」
 突然その唇に強い痛みを感じて、蛮骨は笹早から顔を離した。
 蛮骨の唇から、赤い筋が二筋ほど垂れている。
「てめえ、噛みやがったな」
 笹早は睨みつけてくる蛮骨の視線は意にも介さず、手の甲で口元を拭うと、さらに冷たい視線で蛮骨を睨み返した。
「私は触るなって言ったのよ」
「俺に指図するんじゃねえよ」
 蛮骨の手が笹早の懐に掛かった。
「離して」
「誰が離すか」
「離せ…っつってんだろ!」
 懐から入り込んだ蛮骨の手が笹早の乳房に触れる。
「この…っ」
 耐えかねて、笹早が右手を振りかぶった…その時。

 こんこん

 という音が聞こえた。
 そしてまた、

 こんこん

「…小松ちゃん」
「何?」
「ちょっと兄さん、離して」
 ぐい、と笹早は蛮骨の手を引き剥がした。
 そして乱れた襟を手早く直し、その場から程近い、店の奥側の部屋の前に来て立ち止まった。

 こんこん

 その部屋の障子戸が音を立てた。
 笹早が静かにその戸を開ける。
 そこから、人の腕が一本、覗いた。
 だらりとしたその腕は、まるで死人の腕のように力なく垂れ下がっている。
「小松ちゃん、また悪くなってきたの?」
 部屋の中から低く掠れた声で、こふ、こふ、と咳をする音が聞こえる。
 笹早が蛮骨の方を振り返った。
「兄さん、悪いけど私はこの子の面倒見なくちゃならないの。この子、胸を患っててね」
「……」
 蛮骨は黙って踵を返した。
 顔一面に厳しい表情を作って、蛮骨は睡骨と霧骨の待つ部屋へと歩を進める。
 小松、だと?
 まさかそんな、莫迦ばかな。
 莫迦な…
 蛮骨の頭の隅を、笹早の左腕に手首から肘にかけて大きく真っ青な青痣があったことが、掠めていった。


 静かに障子戸を開けて部屋の中へと入ってきた蛮骨に、睡骨が視線を向けた。
「大兄貴」
「…とりあえず、笹早じゃなかった」
「そうか…」
 布団で丸くなっている霧骨の方を見ながら、睡骨がふと思いついたように言った。
「なあ、大兄貴、もしかしたら笹早が匿ってるわけじゃないんじゃねえか?」
「ってぇと?」
「だから、笹早が匿ってるように見せかけてるんじゃねえのか。その、他の輩が」
「……」
「笹早が匿ってるなんて、簡単すぎる気がするんだよ。あの女、そう馬鹿じゃねえと思うぜ」
 蛮骨は目を閉じた。
 そして、しばらく何やら考えているようにじっと黙っていたが、
「いや、違うな」
 と、不意に目を開けて言った。
「なんでまた? やけにあの女にこだわるじゃねえか」
「別に、そういうわけじゃねえけどよ」
 そしてそれきり、蛮骨は何も言わなかった。
 しばしの沈黙が辺りに満ちた。
「…小松、ってぇ女が」
 不意に、蛮骨が口を開く。
「笹早に世話されてるらしい。なんでも胸の病患ってるらしいんだけどよ」
「へぇ…」
「睡骨、おめえその女のこと調べろ」
「それは、別に構わねえが…」
「明日一日かけりゃ、それぐらいできるよな」
「その女、今度のことに何か関係あるのか」
「さあ、分からねえよ」
 覇気の無い声で、蛮骨は呟く。
「……」
 睡骨は小さく息をついた。
「なあ大兄貴、この前いつ髪洗った」
「へっ?」
 蛮骨が驚いたように顔を上げた。
 そしてそれと同時に、今まで弄っていた髪の先から手を離す。
「いや、さっきから髪の先弄くってるからよ」
「別に、気になるわけじゃ…」
「あんた、そんな癖持ってなかったよな」
「…ああ」
 頼むから。
 それ以上、訊いてくれるな…。
 睡骨はそれ以上何かを聞いてくる様子はなかった。
 蛮骨は、ほっと安堵に息を漏らした。


「小松って子だろう? あの子は何日か前に笹の姐さんが拾ってきたんだよ」
「拾ってきただと?」
「そうさ。汚い身なりで、ありゃあ戦にでも遭って家も親兄弟も亡くしちまったんじゃないかね」
「なるほど…」
「しかも胸を病んでるみたいだからさ。長くはないだろうに、笹の姐さんは優しい人だからねぇ」
 ふーむ、と睡骨は眉を寄せて、何やら考え込んでいるような顔をした。
 その様子を見て女は訝しげに睡骨に問う。
「なんだいお客さん、小松のことがそんなに気になるのかい」
「いや、そういうわけじゃねえがな。笹早はいつもその小松の面倒を見てるのか」
「そうさね、手が空いてるときはあの子の様子を見に行かれるし…それにあの子も笹の姐さんを呼ぶからねぇ。こう、こんこん、て障子戸を叩いて」
「他の女は小松の面倒はみねえのか」
「なかなかねぇ、他にも病に罹った子がいるし、皆自分のことだけでも大変だからね。そう思うと笹の姐さんはもっと大変さ。客も取って、病に罹った子の部屋を回って…まあ、あの小松が来てからお客は取ってないみたいだけど、あの子のあの病の重さじゃそれも仕方ないのかもねぇ」
「そうか…」
「他に何か聞きたいことあるかい、お客さん」
「いや。悪かったな、呼び止めて」
「構やしないよ。それよりお客さん、今夜空いてるなら敵娼あいかたはあたしにしておくれよ」
「考えとくぜ」
 睡骨は手をひらひらと振りながら女に背を向けた。
 連れないねぇ、と後ろで文句を言う声が聞こえたが、構っている暇は無い。
 昨日蛮骨から聞いた小松という女。
 調べてみてはいるが、あまり大きな収穫は無い。
 分かったのは、その小松、笹早が数日前に連れ帰ってきたということぐらいだ。
 あとは、年も知れなければ、具体的に何の病なのかも知れない。
 怪しいといえば、相当怪しいのだろうが。
 睡骨には今ひとつぴんとこなかった。
 特に根拠があってそう思うわけでもないし、蛮骨が調べろと言うのなら調べるが…
(大兄貴の勘がうつったか?)
 考えて、睡骨は自嘲した。
 そんな莫迦な。
 と、そこでふと思う。
(そういえば…どうして大兄貴は笹早に拘るんだ…)
 昨日、敵の細人衆を匿っているのは笹早以外の人物ではないかと提案したとき、蛮骨は違うと言い切った。
 しかしその理由は、思えば未だ聞いていない。
 何故?
 それに昨日の蛮骨の様子…妙に静かで、黙っている間中ずっと己の髪の先を弄んでいた。
 蛮骨にはあんな癖があっただろうか。
(最近になってついた癖なのか…)
 そこまでは、睡骨には分からない。
 これが蛇骨や煉骨なら、もっとよく蛮骨のことを見ているだろうから、分かるかもしれないが。
 つらつらとそんなことを考えながら、睡骨の足は店の奥側にある小松の部屋へと向かっていた。
 人に聞いて分からないのなら、自分の目で確かめた方が早い。
 小松の部屋は店の中庭に面した場所にあった。
 そこは日当たりもよく、病人を寝かせておくには良い場所かもしれないが、同時に客が泊まる部屋も多くある。
 比較的、人目につきやすい部屋だ。
(人目に、つき過ぎる気もするな)
 ここは遊女屋だ。
 ただでさえ不衛生になりがちな場所なのに、わざわざ病人を客の目につく場所に寝かせることもあるまい。
 それにもし、小松が敵の仲間だったとしたら尚更、人目についてはまずいのではないだろうか。
 睡骨は中庭に面した濡れ縁へと出た。
 きし、きしと濡れ縁の板が軋む。
 一歩、一歩と小松の部屋の前まで近づいていき、そこに立った。
 静かに、部屋の戸を開けた。
 睡骨は小さく息を呑んだ。
 乱れたしとね
「……」
 小松の姿は無い。
(どういうことだ)
 何故、小松はいない?
 睡骨は一歩、その部屋の中へと足を踏み入れた。
 板敷きの床が小さく軋んだ音を立てる。
 乱れた夜具の傍にしゃがみ込んで、その掛布を剥がす。
「これは…」
 その下に、赤黒い染みを睡骨は見つけた。
 敷布の、丁度、人が横になったときに左腕が置かれる辺り、その辺りに、小さな赤黒い染みができていた。
(そう、古いもんじゃねえ)
 そうなると…、
(血か…)
 これは、左腕に傷を負っていたと考えるのが普通だろう、この敷布の上に寝ていた人物は。
(左腕に傷…だとすると)
 ここにいた、小松は…
「畜生、そういうことか」
 毒づいて、睡骨は部屋を飛び出した。
 やはり、笹早が…。
 足を速め、睡骨は部屋から去っていく。
 その姿を、部屋の中から眺めている影があった。
「……」
 天井板の間から首だけを部屋の中へ出し、長い髪を下に向けて垂らした人影が、睡骨の去っていった方向を見てにやりと笑んだ。
「まだ気づかねえか、睡骨」
 人影が、くくく、と可笑しそうに笑った。


 蛮骨が驚いた顔をして睡骨を見た。
「小松がいない?」
「ああ、床だけ残して女の姿は消えてやがった」
「……」
「それから、その小松、昨日大兄貴と霧骨を襲った細人だったみたいだぜ」
「何だと!?
 いきなり蛮骨が大きな声を出したので、睡骨は驚いて身を後ろに引いた。
「こ、小松の床の、丁度左腕の辺りに血の染みが残ってやがったから、多分そうだと思うが…」
「……」
「やっぱり、笹早だったな、大兄貴。あの女が小松を世話してたって言うんだからよ」
「……」
「大兄貴?」
 睡骨が、訝しげに蛮骨を見た。
「どうした」
「…別に」
「良かったじゃねえか。あんたの言ったとおり、笹早が黒だったんだぜ」
「まあな」
 覇気の無い声で、蛮骨は呟くように言う。
「それで、小松はいなくなったって?」
「ああ」
「一体どこに…」
「さあ、そこまでは俺も」
「……」
「……」
 黙り込んでしまった蛮骨を、ちらりと睡骨が盗み見る。
「……」
「…なんだよ睡骨、じろじろ見やがって」
「別にそんなつもりじゃねえけどよ。大兄貴が、随分顔色が悪いと思ってな」
「どこが」
「俺の気のせいなら別にそれでいいんだが…」
 と、そのとき。
 部屋の障子戸の方で何やら人の動く気配がした。
「誰だ」
「俺だよ」
「…霧骨か」
 小さく開いた障子の隙間から霧骨が顔を覗かせた。
「大兄貴、死体が上がった」
「死体?」
「女の死体だ」
 それだけ言うと、霧骨は障子戸は開けたままにして、濡れ縁の方へと踵を返した。
 蛮骨と睡骨は顔を見合わせた。
 そして小さく肯き合うと、音もなく立ち上がって霧骨の後を追っていった。


 死んでいたのは若い女だった。
 喉に匕首あいくちが一本刺さっており、それが彼女を直接死に至らしめた原因であると思われた。
 女は着物を着ておらず、赤い湯文字一枚の姿で、店の端にある井戸の近くに半ば埋められるようにして転がされていた。
「…小松」
 蛮骨が絞り出すような声で、言った。
「これが?」
 霧骨がそう聞き返した傍ら、睡骨が不思議そうな目で蛮骨を見た。
「大兄貴、この女の顔を知ってたのか?」
「えっ、あ…」
 蛮骨が一瞬、しまった、という顔をしたのが分かった。
「あ、ああ。まあな」
「へぇ…」
 しかし睡骨はそれ以上追求する様子は見せず、小松の死体の方へと視線を戻す。
「若え女だな。まだ二十歳かそこらじゃねえか」
「まあ笹早の相棒だったんなら、そんなもんで妥当なところじゃねえか」
「そんなもんか?」
 霧骨と睡骨は死体を眺めながら淡々と言う。
 霧骨が傷口をじろじろと見ながら呟いた。
「まあ、傷はこの匕首の傷に間違いなさそうだなぁ」
「そうだな」
 睡骨もそれに肯く。
「この傷なら死んでから一日経ってねえ」
 と、そこで霧骨が蛮骨を呼んだ。
「大兄貴」
「何だ」
「見ろよ大兄貴、この女左腕に傷があるぜぇ」
「…そうか」
「やっぱりこの女敵の仲間だったな。その腕の傷、喉の傷より少しばかり古いぜ」
 睡骨が女の腕の傷をまじまじと眺めながら言うと、その横で、霧骨が女の湯文字に手を掛けた。
「んじゃちょっくら失礼して…」
 睡骨が、それを見て嫌な顔をした。
「おい霧骨、てめえまさか死体に欲情してるんじゃねえよな」
 霧骨は心外だとでも言うように、むっと顔をしかめる。
「違えよ。脚の方にも傷とかあるかもしれねえだろうが」
 はら、と湯文字がほどけた。
「いっくら俺でも、死体に情欲湧くほど飢えてねえっつーの…」
 そんなことをぶつぶつと呟きながら、霧骨が女の脚をゆるく広げさせる。
「何かあったか?」
 睡骨が霧骨の肩越しに女の体の方を見ながら、尋ねる。
「…あー、あるぜ。大有りだ」
「何があった」
「こりゃぁ見たとこ…」
 言いながら、霧骨は蛮骨の方を振り返った。
「拷問痕だぜ、たぶん」
「畜生!!
 突然、蛮骨が傍の井戸のへりに強くその拳を叩きつけた。
「畜生…っ」
「大兄貴…」
 霧骨と睡骨の二人は驚き目を丸くして、その場で固まってしまったように動けなかった。
「大兄貴、何、そんなに怒ってんだ…?」
 霧骨が、喉の奥から絞り出すようにして、問うた。
「……」
「大兄貴らしくねえぜ。敵の女一人、どうしたってんだよ」
「確かに」
 霧骨の言葉に、睡骨も同調する。
「今もそうだが、大兄貴、あんた最近少しおかしいぜ」
「…そんなことねえよ」
「どこか具合でも悪いのか?」
「違う」
 蛮骨は大きく頭を横に振った。
 そして息をつく。
「何でもねえよ」
 睡骨、霧骨、と蛮骨は二人を呼んだ。
「この死体、使うぞ」
「何だって?」
「笹早をめてやる」
「嵌める、だ?」
「そうさ」
 蛮骨が、口の端を吊り上げて笑った。
「この死体、きれいに泥払って小松の部屋まで運ぶぞ」
 小松の死体を指して、蛮骨は言う。
 だがそれを言う蛮骨の口の端が僅かに震えていることには、睡骨も霧骨も気づきはしなかった。


 小松の死体を土の中から引きずり出しながら、しかし、睡骨には、疑問に思うことが一つあった。
(この女…誰に、何のために殺されたんだ…?)
 笹早がこの女の仲間なら、殺したとしてもこんな殺し方はしないだろう。
 だったら、一体誰が?
 まだ、役者が揃いきってねえのか…と、睡骨は心の内に呟きながら、小松の冷たい体に無造作に触れた。


 足がよろついて、どん、と笹早は背を縁側の柱にぶつけた。
「…嘘」
 声が震えていた。
「嘘…っ!」
「どうした、笹早」
「兄さん…」
 暮れ六つの宵の口。
 蛮骨は薄く笑みを浮かべて、笹早の隣に立った。
「何かあったのか? その部屋に」
「……」
 蛮骨は小松の部屋の方をちらりと見て、また笹早の方へと視線を戻す。
「こ、こま、小松ちゃんが…」
「小松がどうしたって?」
「小松ちゃんが…」
 蛮骨の表情から薄い笑みが消えた。
 指すような視線で笹早の目を覗き込む。
「小松が、どうしたって?」
「ど、どうしてこんな…」
「そんなに驚いたか、小松が死んでて」
!?
 笹早が驚いたように蛮骨を見た。
「兄さん、この中を見たの」
「見たよ」
「…そう」
「小松を殺した後でな」
「……」
 笹早が蛮骨から一歩遠のいた。
「何ですって…」
「俺が、この手であの女を殺したって言ったら、おめえどうする?」
「本当に兄さんがやったの」
「信じたくねえなら、別に信じなくたっていいんだぜ」
 また一歩、笹早は蛮骨から遠ざかった。
「どうしてそんなことを…」
「人間一人、殺す理由は一つだけ…金のため、だろ? 悪いが仕事なんでな。どうせおまえだって、同じような理由で何人も殺してきたくせに」
「だからって…」
「なあ、俺を殺してえんだろ? 笹早」
 蛮骨が、一歩、笹早に歩み寄る。
「……」
「殺してえよな。可愛い仲間を殺られちまってよ」
「……」
「可愛い女だったよなぁ。おめえだってそう思ってただろ?」
「……」
「俺が最後に…冥土の土産に抱いてやった時だって、あの女、可愛い声して泣いてたぜ」
 にやり、と、蛮骨が口の端を吊り上げて笑った。
 野卑な笑みだった。
「畜生!!
 突然、笹早が蛮骨の方へと躍りかかった。
 右足で踏み切り、そのばねで一気に蛮骨との間合いを詰める。
 その左手に鈍く光るやいばが煌いた。
 まっすぐに蛮骨の喉を狙ってくる刃先を紙一重で交わし、蛮骨は再び間合いを広げた。
 笹早の長い髪が振り乱されていた
「小柄か!」
 蛮骨の声が若干上ずっている。
 笹早が左手に構えているのは見覚えのある小柄だった。
 あの黒装束の持ち物と同じ物だ。
 やった、と言わんばかりに、蛮骨が歯が剥き出しになるほど口の端を吊り上げる。
「俺達が追ってる黒装束の奴らがこの店に逃げ込んだのと、笹早、てめえのその小柄がそいつらの持ちもんと同じだってのは、偶然にしちゃちょっとできすぎてんじゃねえかい」
「何の話かしら。兄さんたちが追ってる黒装束? 何者よ、そい…」
 と、そこで笹早の背後から、
「あんたが匿ってる城の細人連中さ」
 と、鉤爪を携えた睡骨が、落ち着いた声で言った。
「…はっ、あたしが城の使いもんだって?」
「違うかい。違わねえだろ」
「いいや違うね。だいたいその黒装束が城の細人だって証拠はどこにあるってのさ」
「何だと?」
「その細人連中を自分の目で見たこともないくせに、なんで黒装束だからってだけで細人だと思うのか、あたしにゃ気が知れないよ」
「……」
 睡骨は押し黙った。
 それは…確かにそう言われてみれば…
「おしゃべりが過ぎるぜ、笹早」
 言うが早いか、蛮骨が動いた。
 身軽な動作で対峙していた笹早との間合いを詰め、
「っ!」
 そのまま身体をひねりざま、右腕で笹早の右腕を掻き揚げるようにして抱え込んだ。
「てめえは肩が弱かったな」
 ごり…と、嫌な音がした。
「っくぁ…っ!!
 喉の奥から搾り出すような悲鳴とともに、笹早の身体が崩れ落ちる。
 その左手から取り落とされた小柄が、濡れ縁の上で乾いた音を立てた。
「痛ぅっ…」
 呻き声とともに、笹早の身体からどっと脂汗が流れ出る。
 蛮骨が笹早の耳元に口を寄せて、囁いた。
「これでてめえも、終わりだよ」
 笹早が汚いものでも見るように、蛮骨を睨みつけた。
 しかし。
 そのとき突然睡骨が叫んだ。
「霧骨!」
 睡骨の視線は丁度、蛮骨の背後に向かっていた。
 蛮骨がゆっくりと背を振り返る。
「霧骨…」
 呻くように、蛮骨は声を絞り出した。
 ぎ、ぎ、と、濡れ縁が軋んだ音を立てる。
 目の前に、黒装束が一人、立っていた。
 その黒い塊が歩を進めるたびに、板が軋んでいる。
 肩の上に気を失っているらしい霧骨の身体が担がれていた。
 黒装束は、蛮骨たちから二尺ほど離れた所までくるとようやく立ち止まると、霧骨の身体をどさりと濡れ縁の板の上に落とした。
 黒装束は黒い頭巾と覆面をしていて、顔は分からない。
 だが、唯一外から見えているその双眸に、睡骨は確かに見覚えがあった。
 まさか…!
 その瞬間、睡骨の頭の中で今までの不可解な事柄全てに通ずる、一つの答えが浮かんできた。


「てめえが七人隊の、蛮骨、だな」
 黒装束がもったいぶるような口調で、口を開いた。
 覆面のせいでくぐもっていて声色ははっきりとしないが、男の声であった。
「…なんだ、とうとう三人目の黒装束のお出ましか」
 蛮骨が、少々引き攣った声をあげた。
 同時に抱えていた笹早の腕をゆっくりと落とす。
 黒装束が声を上げて笑った。
「何が可笑しい」
 蛮骨が睨みつけると、黒装束はゆっくりとした動きでその双眸を蛮骨に向ける。
「小松が死んで残念だったな」
「…何だと?」
「可愛い小松は三月みつきもすればてめえの嫁御になるはずだったのになぁ」
「俺の? 何の話だ」
「今更とぼけんじゃねえよ」
 二人が睨み合う。
「……」
 その間に、腕を離され身体が自由になった笹早は、痛む腕を庇いながらずるずると後退して二人から離れていた。
 だがしかしその途中で、何かが背にぶつかった。
「おい、笹早」
 何にぶつかったかと思えば、睡骨の足だ。
「……」
 無言で笹早が睡骨を睨みつけると、睡骨は小さく溜め息をついて、笹早の横にしゃがみ込んだ。
 そして笹早の右肩に触れ、関節の辺りを押したり、動かしたりし始めた。
「痛い」
「しっ、黙ってろ。ただ外されただけだな…よし」
 ごり、とまた嫌な音がした。
「いっ…」
「はまったぜ」
「え…? あ…」
 肩の関節が外れてだらりとしていた笹早の右腕が、しっかりと胴体と繋がっていた。
 何度かその腕を曲げたり伸ばしたりしてから、笹早はまじまじと睡骨の顔を見た。
「あんた…」
「黙ってろって」
「…分かった」
 にっ、と笹早が笑う。
「あなた意外とやるわね」
「そりゃどうも。ところで笹早」
「え?」
 間髪いれず、ひゃっ、と笹早が小さく悲鳴を上げた。
 そして素早い身のこなしで隣の睡骨の身体にしがみついて、それ、を避ける。
 蛮骨の身体が、今までちょうど笹早がうずくまっていた場所に叩きつけられ、跳ね上がった。
「ちくしょ…」
 だが蛮骨はすぐに体勢を立て直し、目の前の黒装束を睨みつける。
「蛮骨って言う割にゃ、ちっと弱えんじゃねえの?」
 黒装束が嘲笑うような声を上げた。
「はっ、何言ってやがる。俺は…」
「それから喋り過ぎだぜ」
 黒装束が、両脚を鞭のようにしならせそのばねで一気に蛮骨との間合いを詰めた。
 蛮骨の鳩尾に、黒装束の右膝が、そこをえぐらんばかりにくい込んだ。
「ぐ…ぁっ!」
「吐くなよ。汚えからな」
「……」
「さてじゃあそろそろ教えてやろうか」
 黒装束は、身を折ったまま動くことのできない蛮骨の襟首を掴み、己の顔を近づけた。
「俺は一体誰なのか」
「……」
「知りたいだろ?」
 黒装束は覆面を顎の下まで引き降ろした。
 にやり、と覆面の下の顔が口の端を吊り上げて、笑った。
「俺の名語るなんて百年早えんだよ」
 そう言ったその顔は、蛮骨であった。
 黒い覆面の下で、もう一人の蛮骨が意地悪げな笑みを見せていた。
「随分驚いたような顔してるじゃねえか、偽物。そんなに俺が生きてるのが不思議かい」
 黒装束の蛮骨が、蛮骨の姿をした蛮骨の襟首から手を離すと、どさ、とその身体は濡れ縁の上に音を立てて落ちた。
 蛮骨の姿をした蛮骨が、搾り出すような声で言う。
「…貴様は俺の仲間が殺したはずだ」
「ああ、小松のことか」
「ああそうだ。昼間見た小松の死体は確かに俺の知ってる小松に間違いなかった…どうしてあの女が死んで、貴様は今ここにいるんだ」
「てめえも驚いただろ。自分の仲間がそこの笹早の世話になってるって聞かされたりとか、いきなり死体で現れるだとかしてよ」
「そんなことは聞いてない!」
「俺を殺しに来たあの女、今日の朝までは十分に俺を楽しませてくれてたぜ。なにせなかなか口を割らねえもんだからよ、こっちも苛め甲斐があったってもんだ」
「なっ、この…畜生っ!!
「てめえの女を俺なんかに差し向けたのがそもそもの間違いだぜ、馬鹿野郎」
「誰が好き好んでてめえなんかにあいつを…くそっ、上の命じゃなかったらこんな…」
「あー、そうそう、そのてめえの上役は、とっくに死んでるかこっちの城に捕まってるぜ」
「何!?
「いや、楽だったよ。てめえはすっかり笹早の方に集中しちまってるし、こっちは仕事がはかどってはかどってなぁ。おかげで俺達の仕事は片付いた。そっちの城の細人衆でまだ捕まってねえのはてめえだけだよ」
「じゃあ、大兄貴はどこか俺達とは別の場所にいたのか?」
 と、そこで口を挟んできたのは睡骨である。
「おお、睡骨おめえなかなか勘が良かったな。俺だって気づいただろ、さっき。ったく霧骨なんか俺を見てもまだ敵だと勘違いしやがって…」
「いや、まあそりゃ…それで?」
 蛮骨は笑いながら答えた。
「俺はいつもおまえらの近くにいたんだぜ」
「近く?」
「小松の部屋だよ」
「あの部屋に…」
「私が匿ってたのよ」
 と、さらに口を挟んできたのは、未だに睡骨にしがみついてる笹早だ。
「蛮骨の首領に、さも病人のような格好をさせてね」
「そういうことだ。おめえらが小松と思ってたのは俺だよ。偽物、てめえが見たのも俺だ」
「本物の小松は…」
「店の奥さ。万一でも、てめえらの目に触れちゃ困ったからな。ところで、おい、お三夜、おめえいつまで俺の弟分にしがみっついてんだよ」
「あらいやだ、首領ったらやきもち?」
「馬鹿」
 言い捨てて、蛮骨は一つ息をつくと、
「つまり、こういうことだよ。俺達が煉骨達と分かれたあの日、俺はこの三夜に襲われたんだ…」
 事のあらましを簡単に語りだした。


「ということは、あの大兄貴の偽物は、俺達が狙ってた細人衆の…」
「そう、手練の一人だった。現におめえらあいつの変装見抜けなかったもんなぁ」
 そう言って、蛮骨は可笑しそうに笑った。
「まあ俺も正直驚いたけどな。あそこまでそっくりで、しかも俺の昔のことや、お三夜とのことまで知ってるんだから」
 言いながら蛮骨が白い小袖を羽織ると、すぐに笹早が寄って来て、手に持っていた包みを開き始めた。
「ねえ首領、私は今は笹早だって言ってるでしょ。みよみよ呼ぶのやめて頂戴」
「いいだろ別に。呼びにくいんだよ、笹早っての」
 包みの中から、蛮骨の白地の鎧一式を取り出しながら、笹早が口を開く。
「あいつら、勿論首領やあなた達も狙ってたけど、あたしも、もっとずっと前から狙われてたのよ」
「あんたも?」
 霧骨が聞き返した。
「そう。あたしが仕切ってるこの辺りを欲しがってたの。奴らは」
「壊した右肩の代わりに左鍛えて、まあよくここまでのし上がれたもんだと俺も感心しちまうけどな」
 蛮骨が袴の紐を締めながら言う。
「何言ってるのさ。そのおかげであなた死なずに済んだんじゃない」
「まあな。でもおめえが俺と蛇骨を襲ってきたとき、最初は信じられなかったんだぜ? 六年ぶりで逢引の約束投げつけてくるなんてよ」
「あたしだって不安だったわよ。あれで分かってくれるかどうか」
「ま、あーいうことするような女はてめえしかいねえよ。俺の知ってる限り」
「だろうと思ったよ」
「…なあ、大兄貴、聞いていいかい」
「なんでぇ、霧骨」
 霧骨は、頭の後ろにできた大きな瘤をさすりながら蛮骨の方を見た。
 ちなみにこの瘤、蛮骨に頭から縁側板の上に落とされたときにできたものである。
「結局小松って女は何者だったんだよ」
「小松は、俺を殺しにきた女だ」
「大兄貴を、一人でか」
「そうだよ。まあとは言っても、あの女腕は悪くなかったぜ。俺が先にお三夜から話を聞いてなけりゃ、俺と五分五分っていっても言いすぎじゃねえよ」
「大兄貴にそこまで言わせるくノ一か…」
「どうせ、色仕掛けがうまかったってんでしょ」
「……」
 くるり、と蛮骨が笹早の方を振り向いた。
「お三夜、おめえ俺に喧嘩売ってんのか」
「あの子をうちに連れてきたときだって半分裸みたいな格好で連れてきたじゃない。それに、あの子に口を割らせようとしてたときだって…もう、たった六年でなんでこんなになっちゃうのかしらね、男って奴は」
「おまえな…」
「首領があんまり小松ちゃんを苛めるから、私も慰め甲斐があったわよ。おかげでいろいろと教えてくれたよ、あたしには」
 最後の部分をやたら強調した笹早の言い様に、蛮骨は何か言いたげに口を開きかけたが、
「なるほど」
 と、横から睡骨に邪魔をされて、黙った。
「そうやって女の気が緩んだところでいろいろと聞き出す、ってわけか」
 蛮骨が少々不機嫌な顔をしながらもそれに肯く。
「まあ、図らずもそういうことになったって感じ」
「それで、大兄貴たちがあの女を殺したのか?」
「そんなとこだよ。睡骨、おめえの死体の見立てはだいたい間違っちゃいねえ。あれはさすがだったな、左腕の傷の方が古いってことまで分かってたやつ。たった一日かそこらしか違わねえのに」
「まあな」
「あの傷を付けといたから余計に、俺の偽物も驚いただろうな。まさか仲間が…しかも情を通じた女が、自分を襲ってきたとは思えなくて」
「だろうな…小松が出てきてから、あの偽物、急に言動がおかしくなった」
「ああいう奴は、細人なんかにゃ向かねえだろうになぁ」
 言いながら、蛮骨は笹早から受け取った己の鎧を身につけ始めた。
 笹早もそれを手伝って、肩の紐を結んでやったりなどしている。
「しかしよぉ…」
 それを横目に見ながら、霧骨が呟く。
「あれ、大兄貴だったんだなぁ。俺と偽物を襲ってきた黒装束。俺ぁちっとも分かんなかったけどよぉ」
「つーか、てめえは最後の最後まで俺だって気づかなかっただろうが」
「大兄貴左腕にあの小柄受けたんだろ? 俺が受けても一晩動けねえような毒、大丈夫だったのかよ」
「大丈夫なわけねえだろ」
「…じゃあ」
「ちょっと死ぬかと思ったけどな、まあ調合主がここにいるからよ。解毒のやり方も知ってるってわけだ」
 そう言って、蛮骨は笹早の方を指差した。
「笹早が?」
「そうよ」
 きゅ、と蛮骨の鎧の肩紐をきつく締めながら笹早が肯く。
「これでも、若い頃は才色兼備の三夜の姐さんてんで、有名だったんだからさ」
「なに、今でも十分有名じゃねえか。裏ででかい顔してる年増遊女ってんで」
「と…っ! 首領~、本当にあんた性格悪くなったわね」
 笹早がぱっと鎧から手を離して、一歩蛮骨から遠ざかった。
「もうちょっと素直に成長するかと思ってたのにさ。そんなんだから背丈もあんまり伸びなかったのね、きっと」
「なん…っ! てめっ、上等だ! 表出やがれ!!
「ええ出てやりますとも!」
 きっ、と笹早が蛮骨を睨みつけた。
 そして勢いよく部屋の障子戸の方を振り返ると、これまた勢いよくそれを開け、外に出る。
 蛮骨もその後に続いて、出て行ってしまった。
 そして部屋の中に残された弟分二人は、自然と顔を見合わせた。
「なあ、睡骨、あの二人ってどういう関係なんだぁ?」
「俺が知るかよ」
 と吐き捨てて、睡骨は小さく欠伸を一つすると、その場にごろりと横になった。
 やれやれ。
 やっと、終わったか。


「…なーんてね」
 部屋を出てすぐに、笹早は、ふふ、と笑って蛮骨の方を見た。
「相変わらず察しのいいこと」
「何言ってんだ。俺に話でもあんのかよ」
「六年ぶりで会ったんだから、話くらいいいじゃない。首領の偽物とやり合ってるときは、忙しくてまともに口もきかなかったしさ」
「ま、そりゃそうだけど」
「お礼が言いたかったのよ」
「礼?」
「今度のことと…六年前のことと」
「…何を今更」
「本当に、感謝してるのよ。六年前も今回も助けてもらっちゃってさ」
「助けたって…仕事で頼まれたんなら俺はやるぜ。仕事なんだからよ」
 それを聞いて、笹早が苦笑う。
「相変わらずねぇ」
「何が」
「そういう妙に律儀なところ」
「そうか?」
「そうよ」
「そうかな…」
 蛮骨はこりこりと頭を掻いている。
 笹早がそれを見ながら、そっと囁くように呟いた。
「だったら…仕事だって頼んだら、あたしの子供の父親てておやになってくれる?」
 蛮骨が、少し驚いたように笹早を見た。
「おまえ、身篭ってんのか」
「違うわよ。できることならこれからそうなりたいって言ってるの」
「……」
「やっぱり駄目か」
「…そう思うなら最初はなから聞くなよ」
 蛮骨が大きく息をついた。
「おまえ、そういう顔できるんだな」
 笹早が蛮骨から顔をそらす。
「おめえ、いつまでもそんな顔してっと、泣くぞ、背中に背負ったでけえ龍が」
「……」
「俺もおまえも、色恋沙汰なんかよりもっと大事な奴らがいるだろ」
「…非道い男」
 笹早が呟いた。
 そして、ふっと顔を上げた。
「終わったわね」
 笹早の顔が泣き笑いのような顔になっていた。
「ああ、終わったな」
 蛮骨がそっと、その笹早の髪を撫でた。

(了)