恋の薬

「貿易は好調。近頃はチョコレートの輸入が倍に増えた」
 と口ひげの男はにやつきながら語るのだった。いでたちは商人風だが、目つきに底光りするようなところがあり、油断のならない感じがする。
 傭兵団長は男の向かいの長椅子にゆったりと体を預けており、
「なぜ?」
 とチョコレートのことを尋ねた。輸入が増えた理由についてである。
「技術革新てやつが起こったのさ。こうカカオ豆をすり潰してな、固めて板にするんだ。それを取引する。豆のままよりも国内で加工しやすいし輸送も楽だ。そして相変わらず需要は高い。特に貴族の連中には」
「薬として?」
「それもある。高貴な方々はお体がお弱くてあそばすからな」
「誰も好きで病弱になるわけじゃない」
「そりゃそうだ。望んでなったことじゃない、純血だとか、子供の頃にたちの悪い食あたり﹅﹅﹅﹅かかったとか――そんな顔するこたないだろう。別にあんたの話をしてるわけじゃない」
 貴族にはありがちな話だってだけさ――と男はにやけた顔を崩さない。
「“恋の薬”だって根強く信じられてるのもあるな」
「ずいぶんお上品な」
「王子様の前で女に脚を開かせる薬とはよう言わん」
 言ってるじゃないか――と傭兵団長は顔をしかめ、
「そんな効能が本当にあるなら世の中の苦労が一つ消滅しとるわ」
 とさらに不興そうな表情をして見せた。
 口ひげの男は他にもいろいろと昨今の情勢や市井の流行についてしゃべり立てた。旧帝国側国境からの密入国がまた増えてきていること、家畜の病気の流行、明るい話題としては若い娘たちの流行りの服のことや、王都での最新の歌劇のこと。
 男は、もうしゃべり疲れたからと帰り支度をしながら、
「今度チョコレートを送ってやるよ」
 と言った。「いらん」と傭兵団長はかぶりを振った。
「間に合ってる」
「遠慮するな」
「別に遠慮してるわけじゃない。本当に間に合ってるからいらないんだ」
「まあとにかく近いうちに」
 男は応接間を出ると、顔つきも態度も変わって、実際にどこにでもいるような出入りの商人の雰囲気をまとった。エステロミア傭兵団の拠点で働く人々もよほどの古参者でなければ注意を払わない程度には、男は透明な存在になっていた。
 後日、付け届けのチョコレートが送られてきた。送り主は盗賊ギルドのギルド長﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
 開封してみると、ひと抱えほどある平たい木箱に板状のチョコレートを敷き詰めてある。先日チョコレートの輸入、流通量が増えたと話していたのは事実だったのだ。
 傭兵団長は、マールハルトに申し付けて箱の隅まで念入りに調べさせた。
「チョコレートの他には――特に何もないようですな。二重底でもありません」
「それはよかった。賄賂でも仕込まれていてこちらが気が付かずに受け取ったことにされてはたまらん。――それにしても本当にチョコレートがよく売れていると見える。これで三度目だぞ、今月に入って」
 と傭兵団長はめ息を漏らす。チョコレートを贈られたのが三度目だ、という話である。
 最初は、月の初め頃、遠く離れた所領に住む高齢の母親から手紙が来た。手紙の内容は、いつもやり取りしているような、領地の様子だとか愛犬が可愛いだとかそんなことばかりだったが、その手紙にチョコレートが一箱付いていた。
「健康のためにいいからと頂いた物だけど、美味しくなかったわ」
 と添え書いてあった。美味でない物をどうして腹を痛めた息子に寄越すのかがわからないが。
 二度目は、付き合いのある魔法アカデミーの枢機官がおすそ分けだと言ってくれた。珍しい物が手に入ったからと。
「当分はチョコレート長者だな」
「傭兵や使用人たちは喜ぶでしょう」
 と言うマールハルトもなんとはなしに嬉しそうだった。
 その日の晩にはさっそく温かいチョコレートの飲み物が皆に振る舞われた。溶かしたチョコレートにとうもろこし粉やバター、酒、スパイスなどを混ぜて火にかけ、たっぷりの砂糖で甘く味付けする。本当に薬効があるのかはともかく、滋養があり、とろりとしていて体が温まる飲み物には違いない。
 チェス卓の脇に椅子を一つ余分に引き寄せ、その上にはまだ湯気の立ち上っているチョコレートのグラスが二つ並べて置いてある。
「何か気がかりそうね?」
 とアイギールが片側のグラスに手を伸ばしながら言った。
 チェス卓を挟んで向かい合っている傭兵団長も、それに促されたようにもう片方のグラスを取った。取ったはいいが、すぐには口をつけようとせず、焦げ茶の水面を胸の前で揺らしてもてあそんでいる。
「毒は入ってないみたいよ」
 アイギールは一口飲んで言った。む――と傭兵団長はグラスの水面を揺らす手を止めた。
「そんな心配をしてるわけじゃない――
 とは言うものの、他人からもらった物を口にするのはとうに成人した今となっても気が進まないらしかった。それに、
「盗賊ギルドが何の裏もない贈り物をしてくるというのは、どうも気味がよくない」
 という懸念がある。アイギールは「それはそうかもね」と苦笑する。
 アイギールはこの甘ったるくほろ苦い味を気に入っていて、もう一口飲んだ。
「体にはいいそうじゃない」
「その点について専門家﹅﹅﹅の見解は?」
――まあ、毒にも薬にもならないわ。当たり前の飲み方をしてればね」
「ふむ――
 傭兵団長はようやく観念したように眉をひそめ、チョコレートを口に流し込んだ。二口ほどでグラスを置き、チェス盤から黒のポーンを摘み上げて右斜め前へ進めた。
 アイギールは白のクイーンで応戦した。いい手だったので、傭兵団長の方も興が乗ってきたようだった。
「今のは悪くない」
 キングを角へ逃して守りを固める。――そうして攻防が激しくなるさなか、卓の下で向かいから不意に爪先が伸びてきてこちらのすねをチョンとつつかれ、思わず飛び上がりそうになるほど驚いた。
「うっ――
「フフ」
卑怯ひきょうだろう、盤の外での妨害は」
「本当の戦だって戦場の外での戦いもあるでしょ」
「いったいどこでそういう知恵をつけてくるんだ――
 傭兵団長はめ息をつきながら、指の間に挟んでいたチェスの駒を置いて、再びチョコレートのグラスへ手を伸ばした。
「男が脚を開かされる薬だとは聞いてない」
「チョコレートに媚薬びやくの効果があるって話? さっきも言ったけど、毒にも薬にも――
 と言いかけて、アイギールは急に真顔に変わった。両足首の隙間に傭兵団長の足先が忍び込んできたからであった。
(こういうときどう対応するのかはミロードに聞かなかったわね)
 と思いつつ、アイギールは案外悪い気分もしなかったからそのままになっていた。
 傭兵団長もそれ以上何かするでもなかった。てっきり足を蹴り返されるものと考えていた。そうされなかったという小さな驚きと喜びが胸で踊った。
 媚薬びやくの薬効はないにしても――この甘く刺激的で温かい飲み物に人の心をとろかす力はあるのかもしれない。
「“恋の薬”だ」
 と言っていた盗賊ギルドのギルド長は意外と慧眼けいがんだったのかもな――と、うっかり見直しそうになるところだった。
 傭兵団長は手にしたチョコレートを飲み干した。それが何か気の利いた愛の言葉を紡いでくれることを期待していたのだが――空になったグラスを置きながらにわかに妙な顔をし、手で口元を押さえた。
――すまん、ちょっと」
 と、うつむいて手のひらへ何かをぺっと吐き出す。
「!」
 アイギールはすわ毒物かと椅子を蹴ったが、別にそういう事態ではなかった。
 傭兵団長の手の上には、小指の先ほどの大きさの紅玉ルビーの裸石が一粒転がっていた。


 もう寝支度をしていたマールハルトは、急に傭兵団長から台所へ呼びつけられて木槌を手に握らされたから何事かと思ったが、この主は「贈り物のチョコレートを全部たたき砕いてみろ」と言う。
 その結果、チョコレートの板の中に埋め込まれていた金剛石ダイヤモンド青玉サファイアなどを見つけた。
「盗賊ギルドからの賄賂ですな。やつらも次から次へといろいろな手を考えるもので」
「まったく」
 魔法アカデミーからのチョコレートには何も入っておらず、傭兵団長の母親からのチョコレートには小さな薬入れの銀筒が仕込まれており、
うかつ﹅﹅﹅ねぇ――(この中身が毒じゃなくてよかったわね)」
 と、そんなことがしたためられた紙片が中から出てきて、息子にげんなりとした顔をさせた。マールハルトもかける言葉に困り、
「相変わらず、ええ、お元気そうでなによりかと――
 と要領を得ないことをもそもそとつぶやき、長いひげをうごめかせるのだった。

(了)