悪運の女神

 刺客が最後の力を振り絞って投擲とうてきした小さな投げナイフは、傭兵団長の眼窩がんかに狙いを定めたものだった。
――!」
 傭兵団長がそうと悟ったときにはもう避けようがなかった。
 ナイフは刺客の手から放たれ、その切っ先は正確に的を捉えていた。「あっ」と思う暇もない。刹那アイギールが目の前に飛び込んできて、彼の代わりに顔面でその一撃を受けた。
 金属と金属とが激しくぶつかり合う甲高い音がした。
「アイギール!!
 倒れ込んだ彼女の姿に傭兵団長は生きた心地がしなかったが、幸い急所は外れたようだった。手で目から上を覆って、
「大丈夫よ――
 と、うめいて寄越す。
「アイギール、目をやられたのか?」
「違うわ。こっちに来ないで――!」
 傭兵団長が心配して駆け寄ろうとすると、這いつくばって逃げるようなそぶりを見せる。
 そうして拒まれて、傭兵団長ははたと気がついた。アイギールが手で押さえている目元には、いつも彼女が着けている仮面がないのだった。
 どうやら――さっきのナイフは彼女の仮面に当たったらしい。その衝撃で留め金が外れ、仮面はどこかに弾き飛ばされてしまったのだ――とわかると、思わず感嘆した。
「なんたる悪運の強さだ――ナイフの先が少しでもずれていたら」
「あなたの目の高さを狙ったのなら、私の額に当たるわよ。投げナイフ程度じゃ頭蓋骨は貫通しない」
「それにしたって痛かっただろう。刃に毒が塗ってあったかもしれないじゃないか。顔に傷だって残るかもしれない」
 と言いながら、傭兵団長は屈んでアイギールの仮面を探した。まだ身動きできないでいるアイギールには「いいからどこかへ行って」と邪険にされたが、聞かずに探していると、少し離れたところに転がっているのを見つけた。
「あったぞ」
 傭兵団長は手を伸ばそうとし――ちょっと警戒するように、仮面の縁を指先でつついてみて、何も仕掛けがないことを確かめてからそれを拾い上げた。
「見事な造りだな」
 手中で表裏を返し、留め金の先までためつすがめつして見る。
―――
 アイギールは口元をひどくゆがめて、どうにかして仮面を取り返さねばならないと考えていたのだろう。しかしあるとき何かの拍子に、ふと、その焦燥を放棄してしまったようだった。
 ぐったりと身を投げ出しているアイギールのそばに傭兵団長は膝を着くと、
「起きられるか?」
 と彼女を助け起こし、うつむいてる顔に仮面をそっと当ててやる。
「これくらいの役得は許してくれ」
 抱きかかえるようにしてアイギールの頭の後ろへ両手を回す。仮面の左右からつながっている金具をはめ合わせると、カチリと音がしてしっかりと留まった。
 指に触れる黒髪の柔らかさを名残惜しいと思ったのもほんの数瞬の間で、静かに手を下ろした。
――馬鹿なんじゃないの」
 だいぶ長い間押し黙っていたアイギールがようやく口を開き、元のように仮面で隠された顔を上げた。額に多少こぶができているようだった。
「悪運の女神もたんこぶからは守ってくれなかったか」
「馬鹿だって言ってるの」
「どういたしまして」
 早くバルドウィンかシャロットに診せた方がいいな――と、傭兵団長はもう腰を上げている。「馬鹿」とアイギールに三度めを言われると、さすがに彼もむず痒そうな顔になった。

(了)