荊に蝶

「いったいどちらにお出かけかしら? 団長殿」
 と背後から呼び止められ、今まさに裏口から出ていこうとしていた商人風の風体の男はギクリと立ち止まった。男は後ろを振り返ったが――その声の主の姿は見当たらない。
―――
 柱の陰などをうかがってみても人影はない。はて、と正面に向き直るとすぐ目の前にアイギールが怖い顔をして立っていた。
「うっ!」
「なにが『うっ』よ。あのね、もう以前の野営地とは違うのよ。あなたの身を守ってくれる結界はここにはないのよ。わかってるの?」
「わかってるさ――
 と、商人風に変装した傭兵団長はめ息交じりに答えた。
「我々が結界に閉じ込められて消息を絶ったとき、そこかしこで祝杯が掲げられたことであろうよ。そして帰還した日には、その杯と同じ数だけ呪いの言葉が吐かれたに違いない」
「自覚があるようでなによりね」
「とはいえ、私もときどきは外の空気をだな」
「外の空気を吸うだけ、で済むのかしらね?」
 さあ戻って――と、アイギールは羊を追い立てる牧羊犬のように傭兵団長を屋内へ連れ戻した。
「それと、その変装は似合ってないからやめた方がいいわよ。腰に剣を帯びる貴族と商人とじゃ立ち方も歩き方も違うわ」
 傭兵団長が服を着替えて執務室に戻ってくると、マールハルトがいて、
「おお、ご無事で――
 と安堵あんどした様子だった。
「お姿が見当たらなかったので心配いたしました」
「皆に心配をかけて、さぞ感心されなかったことだろうな」
「何をおっしゃいます」
「ちょっと散歩﹅﹅に出ようとしたところを捕まってしまった」
「不自由に感じるお気持ちはわかりますが――あなた様の身辺の安全については、陛下も非常に案じていらっしゃるのです」
―――
「お出かけになりたいのなら、いっそ城へお出でになってはいかがです。陛下もあなた様のお顔を直接ご覧になれば、多少なりご安心召されるかと」
 傭兵団長は黙って執務机に着いた。
 暫時こまごまとした仕事を片付けていたが、あるとき小間使いが入ってきて、
「お手紙です」
 と、丸めて封蝋ふうろうをした書面を銀のトレーに載せて差し出してきた。
 傭兵団長は、封に押された印章を一瞥いちべつすると、執務の手を止めてすぐにそれを開封して読んだ。
「ありがとう、下がりなさい」
 と急に機嫌のいい声になって、小間使いを下がらせると、もう一度手紙を初めから読み直し、
あれから﹅﹅﹅﹅もうそんなに経つか――
 と独りごちた。


 イスカバーナの村外れに小さな診療所があり、そこを切り盛りしている医者は変人だが腕は確かだというので、連日患者の行列ができていた。
 とりわけ近頃は、農地や野山で魔物に襲われる者がいない日はなかった。
――魔物の爪や牙による傷はうみやすい。次は教会で治療してもらってもいいが、神聖魔法で塞ぐ前に傷口をよく洗いなさい。できれば新しい雨水で洗うのがいい。次には深い井戸水。川の水はいけない」
「先生、水なんてどれも同じじゃないかね」
「同じように見えるが違う。自分で足に傷を付けて実験をした」
「はぁ、ご自分で、ご自分に?」
膏薬こうやくを渡しておくから、毎晩傷を洗って新しいものに貼り替えなさい。代金はいつでもいい――
 医師の男は、言うことも、格好も変わっていて、患者の前ではいつも頭と顔を新しい布で覆い、唯一目元だけがあらわになっていた。
 ようやく患者の列が途切れた頃、来客があった。
 医師が小用のために外へ出ると、診療所の建つ高台から村の市場の方へ続く小道を、一頭仕立ての小型の馬車が軽快に上ってやって来るのが見えた。
 屋根のない二人乗りの馬車の座席には、女の馭者ぎょしゃと、田舎貴族風の男が並んで収まっている。馭者ぎょしゃの女は背になびかせている黒髪に東国人の様相があり、皮膚病患者が着けるような仮面で顔の上半分を隠していた。
――殿下」
 医師は急いで用を済ませると、そのまま外に立って馬車が着くのを待っていた。
 馬車はやがて坂道を上りきり、診療所の前でまった。馬車を降りた男は、安っぽい身なりをしてはいるが、エステロミア傭兵団長に違いなかった。
「殿下」
 と、医師は鼻と口を覆う布を外し、素顔を見せて賓客を迎えた。
「やあ息災か? 手紙をありがとう。殿下はやめてくれないか」
「確かに、今はエステロミア傭兵団長でいらっしゃる。しかしあなたがどんなお役目に就かれようと、私は王子殿下とお呼びいたしますので」
「むずがゆい」
 傭兵団長は医師に馬車をつなぐ場所の案内を頼んだ。
「それにしても――
 と、医師はそれに応じながら言う。
「ずいぶんと身軽ななりでお出でになりましたね。マールハルトきょうは心配なさったでしょう。馭者ぎょしゃの方はそちらの傭兵でいらっしゃる?」
「アイギールだ。私の護衛と監視﹅﹅役を兼ねている。もっと傭兵を連れて行けと口を酸っぱくして言われたが、まあ、赤子が生まれた家へあまり大仰に押しかけては迷惑だろう」
 傭兵団長は日頃になく声の調子を弾ませて、嬉しそうだった。
「ともかく久しぶりの外出でな。呼びつけてくれて感謝している」
「どうしても殿下を呼んでほしいと言った張本人は、あいにく今往診に出ていますがね」
「多忙らしいな――ここへ来る途中に街で噂は聞いた」
「医者は聖職者に比べれば暇ですよ。葬式がないですから」
―――
 傭兵団長はちょっと肩をすくめて見せた。
「相変わらず、典医に戻る気はないのか」
「殿下のおられぬ宮殿にいても――
 仕方がないのだと、医師は言うのだった。
 馬車を診療所の裏手につなぐと、傭兵団長とアイギールはそのまま住居の方へ通された。
 開け放してある戸口の日陰に古ぼけた肘掛け椅子が置かれ、長い巻毛の婦人が赤ん坊を抱いて座っていた。婦人は肌着シュミーズの前をはだけて赤ん坊にお乳をやっているところだった。
 赤ん坊が満腹になるのを待ってから、傭兵団長は婦人に声をかけた。婦人は、目を丸くして驚きながらも、歓呼して迎えてくれた。
「まあ! まあまあ、まさか本当に来ていただけるなんて――何とお礼を言ったら。あの、うちの人ったら、こんなときに往診に出ていて」
「皆息災でなにより。この子かね?」
 傭兵団長は、立ち上がろうとする婦人を押しとどめ、自分の方から膝を着いて赤ん坊の顔をのぞき込んだ。
「おお天使――リビウスを連れて来られればよかったが、すまないが彼は今故郷くにの方にいてな。彼女がアイギールだ」
「あなたが――
 と婦人は、少し離れたところに控えているアイギールへ、感に堪えないというまなざしを送るのだった。
 アイギールはなにやら気恥ずかしくなって、わけもなく腕を組み替えたり足をすり合わせたりした。するとそれを傭兵団長がからかって、
「何を柄にもなく恥ずかしがってるんだ」
 と笑うものだから憎らしい。
 傭兵団長は、婦人の腕から赤ん坊を抱かせてもらいながら、
「アイギール、君ももっとこっちへ来て坊やの顔を見てやりなさい――名前はもう決めたのかね?」
 と婦人へ尋ねた。
「いえ。ええと、その、うちの人と相談したんです。もしよかったら、殿下にこの子の名前を付けていただけないかと思って」
「私が」
「ええ殿下――おそれおおいことはわかってますの。でももし叶うなら、この子と、それに生まれてすぐ死んだこの子の兄に名前を頂きたくて――
 アイギールがおずおずとやって来た。傭兵団長が抱いている赤ん坊の顔を見下ろすと、嬰児みどりごは彼女の何が気に入らなかったものか突然火がいたように泣き喚き始めた。
「あらいやだ、坊やどうしたの。人見知りをするようなことは今までなかったのに」
「おおよしよし、泣き声が大きいのは元気なあかしだ。きっと彼女の仮面をかぶった顔が怖かったんだろう」
 と言われると、アイギールはむっと眉をひそめたが、さりとて何か言い返すこともできないのであった。


「往診も昼までには済むでしょう。昼食をご一緒にいかがです、殿下」
 との医師の申し出を傭兵団長は喜んで受けた。
「ありがたい。ここ以上に安心して食事ができる場所は他にない」
「それは請け合います。味については請け合いませんが」
「子供の頃に飲まされた君の処方薬はどれもひどくまずかったからな」
 傭兵団長は昼食時まで村を一回りしてきたいと言って、診療所を一旦離れ、車上に戻った。その上、自ら馬をぎょしたいと言って聞かない。アイギールは仕方なく手綱を譲った。
「村の中を見て回るだけよ」
 と念を押す。
「わかったわかった。ところでアイギール、君はどんなのがいいと思う」
「何の話?」
「名前だ、赤子の名前」
「なんで私に聞くのよ」
「君の意見を聞きたいからだ」
 などというらちの明かないやり取り。傭兵団長は機嫌がよかった。
「グリュプス!」
 と鋭く呼んだのは馬車をく馬の名前であった。たくましい馬は早足になって村の市場へ急ぐ。
 王都郊外に位置するイスカバーナは、村とは呼ばれるものの栄えた土地で、区画や道の整備が行き届いており商人たちの行き来も盛んなところである。
「近頃は、ときどきコボルドなんかが村の中まで来ちまうんだけどね――
 と、馬車を停める駅でうまやを預かる老爺ろうやが教えてくれた。
「王様の傭兵団が退治に来てくれるんで、旦那もあんまり心配しなさるこたねえよ。ま、傭兵団ももうちっと早く来てくれたらとは思うがねぇ。おらたちが納めた税金から安くねえ金払ってるんだからさ」
 まさか目の前の貴族風の男がその傭兵団の指揮官とはつゆ思わず、老爺は愚痴愚痴と不満を並べ立てるのだった。
――手厳しいことだ」
 と傭兵団長は、露店のひしめき合う街路を歩きながらぼやいていた。
「市井の目は甘くないな。こちらとしては手を抜いているつもりも、法外な報酬を受け取っているつもりもないんだが」
「そんなものでしょ」
 と、その斜め後ろを守りながらついて来ているアイギールが言う。
「平民に苦情を言われるたびにいちいち気にしてたら、やってられないわよ」
「私はこう見えてさほど肝が太くないんだ」
 傭兵団長は歩幅をアイギールに合わせて、彼女の横に並んだ。
「そこに立たれると警護に差し支えるんだけど」
 とアイギールが文句を寄越したが、傭兵団長は退こうとする様子もない。
監視﹅﹅に差し支えるんだろう。ま、それはともかく、こうして田舎貴族に扮しているのに、さも護衛だというふうにぴったり張り付かれていたらおかしいじゃないか。君にしても、馭者ぎょしゃになりきりたまえよ。そんな眼光鋭い馭者ぎょしゃがいるものかね」
―――
「そうだなぁ――どこかの小領主の三男坊あたりが、気のある村娘を連れ出してのんきに遊び歩いている、という仕立てでどうかな」
 傭兵団長は、気障キザな紳士がよくやるように、仰々しい身ぶりでアイギールへ腕を差し出した。
 アイギールはそれを肘先で突き返し、
「調子に乗らないで」
 とそっぽを向いている。
「上手い芝居じゃないか、その調子だ」
 と、傭兵団長の方は『肝が太くない』などと言うくせにこたえているようにも見えない。
 二人がくっついたり離れたりしながら道を歩いていると、両脇に並ぶ露店のあちこちから声がかかる。
「なあどうだい、安くしとくよ」
「見てっとくれよぉ」
「甘い水菓子はいかが」
 と、さまざまな果物をかごに盛り路上に広げて売っているのは、こういった商売にありがちな胸元の開いた服を着た艶っぽい年増女だった。
「旦那いい男ぶりだわねぇ。何か買ってちょうだいよ」
「私かね」
 と傭兵団長が青果売りの女に捕まっているところへ、目ざとくそれに気がついたアイギールがたしなめに来た。
「ちょっと」
「いや、なんだ、いい男だと褒められたものでついな」
「まったく――そんなのただの商売文句に決まってるじゃない」
「お世辞でもそんなことは言われ慣れないものだから嬉しい。君だって日頃私の個人的なことなんか褒めてくれないじゃないか」
「仲がよろしいことねぇ」
 青果売りの女は関心がなさそうにあいまいな微笑を浮かべており、アイギールの方にも、
「ねえ買っていってちょうだいよ。旦那にねだってよ」
 と商売気を出してくる。
「土産に一つ二つ買っていこうか」
 と傭兵団長が言ったが、アイギールは「よしなさいよ」とすげない。
「もっと安い店が他にあるわよ」
 などと口に出したものだから女の不興を買った。
「こっちだってぎりぎりの値を付けてんだよ。これ以上は下げられないんだ。近頃じゃ街道にまで魔物が出て、護衛なしじゃ荷も運べない。その分高くなるのは仕方ないじゃないか」
 なるほど、とうなずいたのは傭兵団長の方で、
「知恵の実一つ売るにも苦労があるわけだ。よろしい、その苦労を買おう」
 と、林檎りんごをかご一杯も買って、後で丘の上の診療所まで届けてくれるように頼んだ。
「ところで一つ聞きたいんだが、品物の輸送に付ける護衛というのはどこに頼むんだ?」
「え? ――そうねぇ、旦那はたくさん買ってくれたし――大きな声じゃ言えないけど盗賊ギルドが一番いいよ。高くつくけど、仕事はちゃんとしてくれるよ。やつらの手形があれば盗賊に襲われないし」
「相変わらずだなあいつらは。次からは国王陛下の傭兵団に頼みなさい。エステロミア傭兵団なら盗賊ギルドの半分の額で引き受けてくれるだろう」
「どうしてそんなことがわかるんだい――
 と不思議そうな顔をしている女に見送られて、傭兵団長とアイギールは再び人混みに紛れた。
「魔物のせいで物の値段も高くなっていると見えるな」
「そのようね」
「帝国との戦の後に陛下が金貨と銀貨の質を改善なされたのは正しかったようだ。質の悪い貨幣はさらなる諸式高を招く」
――放蕩ほうとう者の田舎貴族が、国の内政について真面目に論じるなんて変じゃないの?」
 アイギールはさっきのお返しを言ってみた。
 傭兵団長は苦笑して、
「確かにそうだ。のんきな身分の者がする話じゃないな。もっと遊び人らしくしなくては――
 と言いながら、隣を歩くアイギールの肩へそっと手を回し、彼女にしては珍しく結い上げることをせずに背中に広がっている黒髪をぜようとした。
 が、その手はすぐさま跳ねのけられてしまった。
「だめよ触らないで――怪我けがしても知らないわよ」
「おお怖い」
「お芝居で言ってるんじゃなくて言葉通りの意味」
 私が腰に短剣一つ差しただけで外を歩くと思ってるの――と言う。傭兵団長は真顔になって手を下ろした。
 魔物の影響は舶来品の方にも現れているようで、商人たちの話を聞くと、運が悪ければ商船が巨大なシーサーペントなどに襲われることもあると言う。船の往来が減っているために商品が手に入らず店を畳んでしまった商売仲間もいると。
「そういうあたしも楽じゃないけどねェ。ま、そのぅ――なんとか品物を買い付ける先を探してほそぼそとやってるワケ」
 と語るのは織物を売る東国人の男だった。
 男は東方の上質な絹や綿の織物を広げてしきりに傭兵団長へ勧めてくる。
「どう? いかが? そちらのお嬢さんクーニャンに流行りのドレスでも仕立てて差し上げたら」
「そうしたいのはやまやまだが、彼女の体を採寸なぞしようものなら命がいくらあっても足りないな」
「イヤよイヤよと言われてるうちが華ね」
「そういえば、この間、国王陛下の勅許を受けた貿易船が海賊に襲われる事件があったが、その船にもきっとこんな上等な織物が積み込まれていたことだろうなぁ」
「マァ買い付け先の船主は確かに少し怪しいヤツだったけど、品物の出処なんて聞かないからね」
「国産品はないのかね」
「多少あるけど――東の国の生地の方が高級だよ。みんなが羨ましがるよ」
「いいから」
 織物商の男は国内で織られた絹布や、その端切れで作った付け袖や襟巻きなどを見せてくれた。
 アイギールも近くまで来てそれらの品を眺めた。
「あら、なかなかいいじゃない――
 と、葡萄ぶどう色に染めた絹のリボンに手を伸ばしかけたが、ちょっと迷って、結局思い直したようだった。
 市場をぐるりと一回りし終えると、二人は馬車を引き取って再び車上の人となった。
 馬車を出す直前に、傭兵団長はどこからか取り出した葡萄ぶどう色のリボンをアイギールに手渡した。アイギールは受け取って、きょとんとしていた。それは、さっき織物商のところで手に取ろうとしていた品に違いなかったからである。
「欲しかったのだろうと思って」
 と傭兵団長は言う。
「違ったか? 迷惑だったらすまなかったが」
「そんなことはないけど――
 アイギールは――贈り物をされて嬉しいというよりも、なぜ、という戸惑いの方が先に立ってしまうのであった。
「こんな高級品を買ってもらう理由がないわよ」
「別になくてもいいじゃないか。私が贈りたいから贈るまでさ。――どうしても理由が必要だというなら、強いて言えば私の下手な芝居に付き合ってくれたお礼だ」
―――
「このまま馬を駆って放蕩ほうとう貴族らしく逐電駆け落ち――なんていうのも悪くないな」
 アイギールは、仮面の奥で目を細め、笑っているような、困っているような、どちらともつかない様子だった。
「あなたと二人で姿をくらましたとなれば、私は王の弟をかどわかした大罪で地の果てまでも追われる身になるでしょうね」
「それは困る――
「だいたい、できもしないことを言うものじゃないわよ。あなたに駆け落ちなんて無理」
 それくらいのことは私だってわかるわよ――と、アイギールは口には出さずに、ひそかに思う。診療所や市場でのこのひとを見ればわかった。
(この国の人たちを捨てて自由になるなんて、できるわけないのに)
「ふふ――
「何か可笑おかしかったか?」
 と傭兵団長は首をひねっている。アイギールはそれに答える代わりに、
「ねえ――これ、髪に結んでくれない?」
 と、彼に贈られたリボンを差し出し返した。それがよほど意外なことだったらしく、傭兵団長はアイギールの仮面の奥の碧眼へきがんを見つめ、まごついていた。
「私は後ろにまで目が付いてるわけじゃないのよ。自分じゃ見えないわ」
――なるほど」
 それはそうだ――と、リボンを受け取って、恐る恐る、というふうにアイギールの髪へ手を伸ばす。
「襟には触らないでね」
「毒のとげの隠し場所はそこか」
 彼女の両頬にかかっている髪をすくって頭の後ろで一つにまとめる。それにリボンを巻きつけ、蝶々ちょうちょうの形に結んだ。
いばらちょうが止まった」
 傭兵団長はその蝶の羽を一つ指先に載せ、後ろに目はないと言うアイギールの言葉を信じてこっそりと、それを口元へ持っていって唇を押し当てた。


 診療所での昼食が済んでから、傭兵団長は帰途につく前の名残惜しさにもう一度赤ん坊を抱いて、
「ふむ」
 と難しい顔をしているのは名前のことで悩んでいるらしい。
「帰ってからゆっくり悩めばいいじゃないの」
 アイギールがそこへやって来て、赤ん坊の顔をのぞき込む。と、またもや赤ん坊はぐずり出しそうな様相だから参ってしまう。
「ああもう、そんなにこれ﹅﹅が気に入らないのね?」
 アイギールは傭兵団長に、目をつぶってあっちを向いて、と言う。
 傭兵団長はなんだかわからないままに、その通りにした。まぶたのむこうで、パチリ――と何か金具を外すような音と、
「別に怖くないわよ、ほら――
 と、そんな、いつもより少し優しげなアイギールの声がした。

(了)