知恵の実

 バターのみっしり詰まっている陶製のつぼの蓋を、なにやら持ち上げたり下ろしたりしている者がいるらしい。カチャカチャ音のする方をアイギールが振り返って見ると、小さな黒猫が乳の匂いに誘われて調理台によじ登り、バターのつぼに前足でちょっかいを出していた。
「こら」
 黒猫を調理台から抱え下ろし、かまどの前にいる主の方へ押しやる。
「ああ――すみませんね、アイギール」
 とジュランも自分の猫の悪戯に気がついて、「いけませんよ、こっちにいらっしゃい――」と黒猫を呼び寄せた。黒猫はバターをねだっているつもりか甘えた声を上げ、主の足元に体をこすりつけた。
 アイギールは元座っていた腰掛けに腰を下ろした。
 かたわらに水を張ったおけがあり、水面を覆うほどの数の林檎りんごが浮かべてある。アイギールはそこから一つ取って、傷や腐敗がないことを確かめてから皮にナイフを当てた。
―――
 するするとあっという間に皮をいてしまうと、四つに割って芯を取り除く。次の林檎りんごに手を伸ばす。言葉少なに黙々と手ばかり動かしている。
「おや、もうそんなに――さすがですね、アイギール、あなたが手伝ってくれて助かりましたよ。謹慎中なのに仕事を頼んでしまって申し訳ないですが」
 とジュランがアイギールの手際のよさを褒めたが、アイギールは、
「いいのよ」
 とそっけなく答えたばかりだった。別に機嫌を損ねているわけではなく、謹慎の意を示すために同僚たちとの交流も控えているのだった。
 ジュランはアイギールが下ごしらえをしてくれた林檎りんごを鍋に移し、かまどにかけた。日持ちがするように高価な砂糖もどっさり入れてある。王立の傭兵団というだけあって、そういうところは贅沢ぜいたくである。
「鍋に入り切らなかった林檎りんごはソテーにでもしましょうか。野営地こんなところです、たまの間食は皆さんも喜ぶでしょう」
―――
「あなたも真面目な人ですね」
 と、ジュランはアイギールが謹慎処分に従順に服している態度のことを言った。
「正直なところ、まだちょっと信じられませんよ。あなたが命令を守らなかったなんて。今までそんなことはなかったですし、あなたはいつでもどんな任務でも完璧にこなしてきたように見えましたが」
―――
 黒猫がジュランの足元を離れアイギールのそばへやって来た。
 調理台を見上げて、にゃあんと切なげな鳴き声を漏らす。しばしの間をおいて反復されるその声を、アイギールは黙って聞いていたが、あるときふと、
――少しだけバターをやってもいいかしら」
 とジュランに尋ねた。ジュランは意外そうな表情をして見せ、多少戸惑いはしたが、結局最後には「どうぞ」と答えた。
「うるさかったですか? 少しだけなら、まあいいですが――
―――
 アイギールはナイフの先でバターをすくって、それを指先に取り、黒猫の鼻先へ差し出した。
 黒猫は、あれだけ欲しがっておきながら、いざ目の前に出されたとなるとすぐには飛びつかない。じっとアイギールの指を見つめている。そうやって危険がないか確かめるようにしてから、やっと赤い舌を出して、ちろちろとバターをめ始めた。


 ジュランは余った林檎りんごをたっぷりのバターで焼き、香辛料で甘い香りを付けてソテーにした。
「アイギール、団長とマールハルトの分を持って行ってもらえませんか。冷めないうちに」
――私?」
「私は皆さんの分を持って行きますから。後片付けもありますし」
「でも、団長は食べないと思うわよ」
 とアイギールは言う。
「? そうですか? お嫌いでしたでしょうか」
「そんなことはないだろうけど」
 アイギールは言葉を濁して、はっきりとは理由を言わなかった。
(どうせ手を付けないでしょうけど――
 とは思いながらも、それでもジュランに頼まれたとおりに、温かい料理をトレーに載せ、傭兵団長の執務用の天幕へ運んだ。
「失礼します」
 と天幕の入り口をくぐってみたところ、マールハルトは折り悪く席を外していて、傭兵団長が一人で卓に着いていた。
 傭兵団長はアイギールの姿に気がつくとちょっと顔をしかめ、
「君は謹慎中だろう。感心しないな――ああ、いや」
 いかんな、マールハルトの口癖がうつってきた――と、なんだかぶつぶつ言っている。
「申し付けられたとおり戦闘には参加していません。ジュランに料理の手伝いを頼まれただけ。人手が足りないのよ、ここは」
「それを言われると、私も君たち傭兵には不便を強いてすまないところだが」
「武器を持つことだって控えてる――林檎りんごくナイフは武器に含めなくても構わないでしょうね」
「ほう、君のナイフさばきで調理されるとは幸運な林檎りんごだな」
 と、傭兵団長は変な冗談を言ってアイギールに怪訝けげんな顔をさせた。
 アイギールは卓の上へトレーを置いてすぐに天幕を出ていこうとした。
「まあ待て――
 傭兵団長は置かれたトレーへ手を伸ばしながら、それを引き止めた。
「そんなに私を避けなくてもいいだろう」
――別にそんなつもりは」
「甘そうだな」
 料理の皿の上にかけてある覆いを外すと、バターと香辛料の香りが立ち上って鼻腔びこうを刺激する。
 味付けの濃いもの、匂いの強いもの、そして人の手で運ばれて来たもの、どれもこの傭兵団長は好まないはずだと、アイギールは思った。
(毒殺の予防としては当然のことだわ)
「ふーんジュランがこれを調理したのか。彼も変わった男だな――傭兵たちについてはまだよく知らないことばかりだ」
 と言いながら、傭兵団長は銀の皿を取って手前に引き寄せた。
――食べるの? まさか」
 アイギールは驚いた。
「不用心だと言いたいんだろう。私もそう思う」
「じゃあなんでやめておかないの。私がここへ来るまでの間に料理に何か﹅﹅混ぜたとは思わないの」
「なるほどいかにもありそうな話だ。君ほどの暗殺者なら、この間の男のようなヘマはしないだろうしな」
 と傭兵団長は、まるでアイギールのことを以前からよく知っている知己の間柄のように扱うのだった。
 柔らかくソテーされた林檎りんごの一片をスプーンですくい上げ、ほんの一呼吸――傭兵団長は、ためらいなくそれを口に運んだように見えた。
――――甘露だ――あいつは料理が上手いな。やっぱり変わった男だ」
――たいした度胸ね、あなた」
「そんな目で見ないでくれ。私も別に馬鹿じゃない。皿に変色もないし、それに君のような凄腕すごうでが食事に毒を盛るなんて回りくどい真似まねをする必要もないだろうと思ったまでだ。馬鹿だと言うなら、君を傭兵団ここに置いたままにしている時点で私ごときは生殺与奪の権を委ねているに等しい。そのことは確かにどうかしていると思う」
―――
「その仮面越しにも、ひと目で君だとわかった」
「何の話だかわからないわ」
「そうかね――では私も、君が私に借りを作っただとか言っていたのは心当たりがないな。君の思い違いだろう。こちらが貸した覚えのないものを一方的に返されても迷惑だ」
「勘違いで私は謹慎処分まで受けてるってワケね」
「そういうことになる。君の完璧な経歴に傷を作ってしまって、馬鹿なことをしたな」
「まったくだわ。本当に。――
 アイギールはきびすを返すと、天幕から出ていった。彼女がむこうを向く刹那、仮面の奥で目元がどこか寂しげにかげっているように見えたのは、あるいは傭兵団長の見間違いだったのかもしれないが。
――また会えて嬉しい、くらいは言わせてくれてもよかろうに」
 と、もう見えなくなった背中に向かって傭兵団長はぼやいた。
 しばらくして、マールハルトが所用から戻ってきた。天幕に入ってくるなり、マールハルトは傭兵団長が手元の皿を平らげているのを見つけて、物珍しそうな顔をした。
「お珍しい。お召し上がりになったのですか」
「知恵の実を勧められて、断る男はいないからな」
 その意味がマールハルトにはわからず、長いひげをもぞもぞさせ、首をひねっているばかりであった。

(了)