爪紅
ミロードが可憐な小瓶を手にしてやって来て、これは近頃サンドストームで売り出されている新しい化粧品なのだと言う。東国の爪紅の花を潰した汁を精製したもので、爪に塗ると薄赤く染まるのだそうだ。
「それで?」
とアイギールがその説明を聞き終わって、だからなんだと尋ねると、ミロードはアイギールの手の爪にそれを塗ってみたいのだと答える。
「――自分の手で試しなさいよ」
「私はしばらくアカデミーの魔術の実験で薬品を触るからだめ」
もっともミロードにはよくあることで、化粧品など山ほど持っているくせに、新しい物が出るとすぐ手に入れてきて同僚たちでそれを試すのである。若い娘たちが香水やら紅やらを塗られているのはいいとしても、先日キャスの髪の毛に
「匂いが付かないでしょうね」
と、アイギールは言いながらも、仕方なく、隣に座ったミロードの方へ手を差し出した。
「大丈夫よ。あなたの手って指が長くて綺麗だから手入れのしがいがあるわ」
「―――」
ミロードは小さな羽根ペンのような道具を使って、小瓶から染料を吸い上げてはアイギールの爪に塗っていく。
「ねぇー、アイギールあなたって
と、こんなとき口を閉じていられないらしく、そんなことを聞きたがった。
アイギールはその手の話には興味が湧かないという顔をしてみせた。
「――見ればわかるでしょう」
「あら、私だって別に千里眼の魔女じゃないものだから」
「そういうあなたにはそんな相手がいるわけ?」
「今は特別な人はいないわね――でも恋もいいものよ、たまには。そうでしょ」
「さあ――」
「可愛い男に
「あんなこと、別にそれほどいいものとも思わないけど」
「
とミロードはいささか艶めいた表現まで使ったが、アイギールには今ひとつピンとこないようだった。
「? そういうのは『胸の奥』と言うところじゃないの」
「――あら――なんだ思ったより
どういう意味? とアイギールが問い
ミロードが塗ってくれた染料は乾くと確かに淡い紅色になり、なにやら爪の表面のつやもよくなったようである。アイギールも自分の手を顔の前でためつすがめつしてみて悪い気はしなかった。
「―――」
午後になると、アイギールは任務のことで話があるからと傭兵団長の執務室に呼ばれた。
執務室にはマールハルトもいて、アイギールが入ってきたことに気がつくとわずかに目元を曇らせた。
「お呼びつけにより参上したわよ、団長殿」
「はは、なんだ今更変に改まって――こっちへ来てくれ。そんなに離れていては書面も見せられない」
「次の任務の話?」
「うむ。君はよく言っているな? 『どんな任務でも引き受けるわ』と。こんなのはどうだ?」
「旧第三砦への物資輸送?」
だけどあそこは――とアイギールは言葉を濁しながら、傭兵団長から書類を受け取りそれに目を走らせた。そこに書かれているのは輸送する全ての物資の一覧であった。
「――何なのこの馬鹿げた積み荷は」
「知らん。むこうが指定してきたんだ。大海の東では重石を使って保存食を作るそうだが、なにかそういう商売でも始める気かな?」
「そんなわけないでしょう――石といえば、そうね――。――近頃シルバーファングの錬金術師ギルドには
「それは興味深い話だ」
ふむ、と傭兵団長は思案をし、
「――まだ指定の期日までは日がある。探りを入れておいて損はない。マールハルト、シルバーファングの両替商のギルドに使者を送りたい。そうだな、日が高いうちにも」
とマールハルトを呼ぶ。マールハルトはちょっと
「錬金術師ギルドではなく?」
「金銀の絡む話なら
マールハルトが言いつけられた用事のために席を外すと、アイギールが、
「私が入ってきたとき、マールハルトが妙な顔をしてたわよ」
と言う。傭兵団長は心当たりがあるようで、苦笑している。
「マールハルト
「―――」
「まったく、心配性の乳母が引っ付いて離れない王女の気分だぞこっちは――ところでアイギール、気になってたんだがその手はどうした」
と急に話の矛先を変えたと思えば、目ざといことである。これはミロードが――とアイギールが説明すると、傭兵団長はそんなことにも興味を覚えるらしかった。
「ほう、爪紅の花の色なのか。婦人方の美容に対する熱意は尽きないものだ。――なあ、もっと近くで見せてくれ」
アイギールは黙って左手を差し出した。
「手に取って見ても構わないか?」
「好きにしなさい」
と、アイギールはそっけなく答えたつもりだったが、傭兵団長の手が手に触れ、
「――君の手に触れただけなのに、少年の頃のように胸が高鳴ってしまうんだから我ながら情けない」
とため息をつかれると、ズキン、と思いもしなかった衝撃が体の芯を貫いた。
「なるほど爪を染めていると指がすらりとして見えるし、血色もよく見えるようだ。町の婦人たちが競って買い求めるわけだ」
と言いながら、傭兵団長は、アイギールの指先を捧げるようにそっと持っているばかりで、それを握ろうともしないのであった。
アイギールはたまらなくなって手を振りほどいた。
「おっと――何か粗相があったか?」
「マールハルトが――」
「いや待て、それはさすがに」
まだ戻らないだろう――と傭兵団長がいい終わりもしないうちに、マールハルトが足早に戻ってきた。たった今一報が入り、王国の北への街道が先日からの悪天候で崩落したという。エステロミア傭兵団へも間もなく国王から下命が下されるとのこと――
――アイギールは執務室を辞して、一人になると、なんとなく背中に両手を回して指を組んで、歩きだした。自分の指と指を絡めたところで、さっきのような甘い痛みが
(了)