乙女心と秋の空

 読書の秋である。
 こずえを透かして注ぐ陽光と涼やかな風をうっとりと頬に感じながら、ティティスはお気に入りの大きなかしの木の上でくつろいでいる。丈夫な太い枝に厚いリネンを掛けてあって、気が向いたらそれにくるまって一眠りすることもできる。
 人気の少ない森の中でもあり、場所を知っていて見上げない限り見つからないであろうちょっと秘密の場所だった。
 ティティスは手にした小さな本に目を落とした。古びた革装丁で表紙にはく押しされていた題字はところどころ剥げ落ちてしまっている。開くと古い紙の香りが甘い。
――森で二人がしていたことは幼子の他愛ない遊びに等しいものだったと知ったのである」
 と、その本の最後の一節を暗唱してティティスは頬を染めた。体の芯がなんともいえずむずがゆい。本を抱いてじたばたした拍子に枝が揺れ、羽を休めていた小鳥が驚いて飛び去った。
「ああいいなぁ。あたしもいつか絶対にこんな素敵な恋を――!」
 なんのことはない、いかにも読書の秋らしく恋愛小説など読んであらぬ妄想に浸っているのだった。
 近くに誰もいないのをいいことに、愛をささやくセリフを読み上げてみたり、リネンにくるまったり、もてあそんでみたり、完全に自分一人の世界であった。
――ティティス、ねえ」
 だから木の根元から聞こえるその声に気付いたときには、枝下に立っている人物はもう何度も呼び掛けた後だったらしい。
 ティティスが見下ろすとジョシュアが立っている。気まずそうな顔をしているのはおそらく、
「きゃっ! やだジョシュアもしかして聞いてた!?
「いや、まあその」
「いたならいたって言ってよ!! もう! ばかっ!!
「ティティス、そんなに暴れると落ちるよ!」
 真っ赤な顔をしながらティティスが枝を降りてくると、ジョシュアはごまかすように笑い、幹に寄りかかって腰を下ろした。ティティスもふくれ面で隣に座った。
「ジョシュア暇なの? こんなところまで来て」
「夕方の任務まで一休みしようかと思って」
 ジョシュアが上着のポケットから油紙に包んだ焼き菓子を取り出し、二人でそれを分けて食べた。シャロットが焼きたてをくれたのだと言う。まだ温かい。
「何を読んでたんだい?」
 とジョシュアはティティスの持っていた本をのぞき込んだ。
「見ないでよ」
「人に見せられないような本を読んでたの」
「そ、そうじゃないけど!」
 仕方なくティティスは本を見せた。
「傭兵団の書庫で見つけたの」
「こんな本も置いてあったんだね。僕はあまり立ち入らないから知らなかった。まさかマールハルトが買ったとも思えないけど」
 ぱらぱらとページをめくっては、挿絵を眺めたり、絵が誰に似ているとか話したりした。ティティスは、自分がさっきまでのめり込んでいた恋物語にジョシュアがまじまじと目を走らせているのがなんだか恥ずかしい。一人でもじもじしていたら、ふいにジョシュアが言った。
「君も恋人がほしい?」
「え、えっ!?
「君もこういうのに憧れるのかなって」
 ティティスが慌てた反面、ジョシュアは常の通りの落ち着いた様子で、単なる好奇心のしわざらしい。ティティスはほっとしたようながっかりしたような気持ちになった。
「そりゃ、まあ素敵な人がいれば」
「ふうん。素敵な人って、たとえばどんな?」
「たとえば――優しくて」
 一つ一つおずおずと挙げていく。
「目のきれいな人がいいわ。それに頼もしい人がいいな」
「頼もしいって?」
「うーんそうね、みんなをまとめてリードしたりできる人」
「ふうん」
 と、またジョシュアは頷き、
「僕みたいな戦士でも構わない?」
 と尋ねてきたからティティスは丸い大きな目をさらに丸くした。
「ど、どういう意味それ!?
「いや僕の知り合いにそんな人がいれば紹介してあげようかと思ってさ。でもリビウスやアルシルくらいしか思いつかないな」
 ジョシュアは苦笑いして焼き菓子を一つ口へ運んだ。ティティスはやっぱりほっとしたような、がっかりしたような気持ちである。それを隠そうとことさらに騒ぎ立てた。
「もう! そういうの余計なおせっかいって言うのよ! ジョシュアに紹介なんかしてもらわなくたって、恋人くらい自分で探すわ!」
「そ、そう。ごめんよ」
「あう、その、謝るようなことでもないけど」
 ティティスはしゅんとして、膝を抱えて小さくなった。さっきから百面相だ。秋の空みたいにころころ変わる。
「ねえ、ジョシュアはほしくないの? 恋人」
「うーん――僕は特にいらないかな」
「そうなんだ」
 ジョシュアには今のところ好きな人はいないようだ。とわかって嬉しいような、でも自分のこともなんとも思われていないんだなとわかって寂しいような。乙女心は難しい。
 ティティスがため息をついていると、ジョシュアは少し照れくさそうに言い添えた。
「恋人なんかいなくても君がいてくれれば僕は楽しいよ」
「!」
 ティティスの胸に押し寄せてきた言葉のほとんどは声にならなかった。物言いたげに口ごもっていたばかりである。
「あ、あたしも――
 と、ようやく消え入りそうな声でそれだけつぶやいた。
 ジョシュアがこそばゆそうにそっとまつげを伏せた。

(了)