天虎

 そのとき中島は、胸の奥まったところで、“奴”の声を聞いた気がした。それに突き動かされたに違いなかった。
 不思議なことに、そのとき、中島の黄金色の目に映るもの全てがひどくゆっくりとして見えた。見慣れた有碍書の世界、侵蝕された空を流れる文字の雲も、点と線でできた森の木々が揺れるのも、地面を這うくちなわ﹅﹅﹅﹅も、万物の動きが活動写真のフィルムをコマ送りで映しているようだった。
 中島のすぐ眼前に青ざめた鏡花の顔があった。
「中島さん!!
 と、名前を呼ばれたようだった。そういう風に鏡花の口が動いていた。だがその声は聞こえなかった。何も聞こえはしなかった。
 鏡花を侵蝕者の攻撃から庇って背中に深い一撃を受け、中島自身が地面に叩きつけられた音さえ無音であった。
「中島さん! 中島さん!!
 と、鏡花が何度も中島の名前を叫びながら、その倒れた体のそばへうずくまった。
 地面に突っ伏している中島の背中にむごたらしく傷口が開いていた。そこから血液が流れ出ていないのがいっそ不気味で、その代わりにおびただしい数の文字の粒が、「血」「皮」「肉」といったものの群れが傷口を中心に中島の体を蝕み始めている。
 倭刀を握り締めたままの中島の右手がガクガクと痙攣して震えていた。鏡花が顔を覗き込むと、意識はある。目こそ開いていないが、口元を歪め何か呻いている。
 しかし鏡花にそれを喜ぶ暇はない。
!!
 にわかに首の辺りへ怖気を感じ、咄嗟にレイピアで脇を払い上げた。手応えがあった。
 ぼとり、
 と袂の上に落ちてきたものを見て、鏡花は嫌悪の悲鳴を上げた。黒々した肉塊のごときもの――崩壊した文字の点と線がびっしりまとわりついて、繊毛のようにいやらしくうごめいていた。
 鏡花に前肢を切り飛ばされた化け物が、少し離れたところから、こちらの様子を窺っている。
 不定形な洋墨の塊、とでも言い表すしかない。常にどろりどろりとりとめなく形を変え、臓物のように脈打つグロテスクな侵蝕者。
 彼らには痛みも苦しみもないらしい。あるのは人を蝕む悪意と呪詛ばかりである。刃で斬りつけても、鞭で打っても、なまなかなことではその呪詛は消えない。
 鏡花にとって、よい状況とは言えなかった。
「く――
 レイピアを構え、中島を庇う。せめて中島だけでも助けたいと思いはするが、いささか自信がない。
 どこからか、黒い霧が漂ってきて寄り集まり、また新たな纏まらぬ洋墨となって、鏡花と中島の方へにじり寄ってくる。
(この場に秋声がいれば)
 と鏡花は思う。
 本来、仲間たちと四人一組で行動していれば何の問題もなかったはずだ。それがこのように中島と二人きりはぐれてしまったのは、この天生峠の大森林、神代から杣が手を入れぬ森の魔力によるものか。
 鏡花は、ともすると震え出しそうになる息を整え、
「来なさい」
 と、言った。レイピアを上段に構え直した。
 その言葉が、化け物たちに通じたのかはわからない。それでも二匹の纏まらぬ洋墨は、ついに鏡花と中島へ飛びついてきた。
「汚らわしい――!!
 先頭の一匹へ、その腹部と思しき部位へ、鏡花の剣先が鋭く突き込まれた。
 纏まらぬ洋墨はゾッとするような悲鳴を上げてのたうち、もんどり打った。
 たまらず鏡花がレイピアを離したところへ、後続のもう一匹が襲いかかった。これまでか、と腹をくくった鏡花は身を縮めた。
 そのとき、
 ヒョォ――
 と甲高く風を切る音。はっ、と鏡花が顔を上げると同時に、いずこからか放たれた矢が、眼前の纏まらぬ洋墨の急所を貫いていた。
 息絶えるまでの間地面の上でうごめいていた二匹の化け物を、鏡花はしばし呆然と見つめていた。あるとき、ふと我に返ったように、その汚らしい塊たちから一歩後じさりをした。
 そんな鏡花の体たらくを見て、
「まったく、情けないったらないよ」
 と、閉口した調子で言った者があった。
 鏡花と中島から行く手の方、纏まらぬ洋墨二体の死骸を挟んだ向こうに、あきれた顔で弓を携えている徳田秋声と、それに島崎藤村の姿が見える。
 二人は足早に鏡花たちの方へ近寄ってきた。
「秋声、島崎さん、今まで一体どこに」
 と鏡花が問うと、
「その前にお礼くらい言ってくれてもいいと思うけど」
 と、秋声は口をとがらせつつも、
「僕たちにもわからないよ。ただ、君たちとはぐれて、道を外れた森の奥に迷い込んでたんだ」
 そのように答え、藤村がのんきな声で言い添えた。
「さすが高野聖も通った天生峠だよね。随分蛭に食われたよ。すごくかゆいんだ」
 と、赤くなっている首の周りなど掻いている。
 鏡花はさらに問うた。
「どうしてここがわかったんです?」
「気持ち悪いのがひとところに集まっているようだったからさ、追いかけて来たら君たちがいたんだ」
 藤村が答え、倒れている中島を見下ろす。中島の背の傷は、時間が絶つに連れてますます文字に侵されていくようだった。
「中島くんがそんな風だから余計に寄って来ちゃうのかな?」
 とつぶやいて、藤村はおもむろに弓に矢をつがえ、振り向きざまに背後へ放った。
 遠くで不快な獣の悲鳴が聞こえた。が、致命傷には至らなかったと見える。藤村はさらに矢をつがえ、素早く引き絞って放った。
 ギャッ、と再び悲鳴が上がり、今度こそ仕留めたものらしい。
「下手に動くから、死にそびれて苦しむことになるんだよ」
 藤村は弓を肩に掛け、中島のそばにしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
 と、中島の頭を指先でつつく。中島が薄く目を開けて、じろりと藤村をにらみ上げた。弱ってはいるようだが、その目は未だ炯々と光っている。
「なんだ、案外平気そうじゃない」
 藤村は少しがっかりさえしたような口振りであった。
「ま、とにかく、ここにいても敵が集まってくる一方じゃないかな。一旦帝國図書館に帰ろうよ。中島くんを直さないとね」
 と、鏡花と秋声に同意を求めた。二人に異論があるはずもない。
 藤村が、中島を連れ帰るために抱え起こそうとしたときだった。
「あの、島崎さん、僕が――
 と鏡花が申し出た。秋声が目を見張った。藤村は意外そうに首をかしげながら言う。
「いいの? 体、汚れちゃうよ」
「平気です――
 と答えつつ、鏡花の手はいささか震えていたが、それでもなんとか中島の体を抱えると、秋声と二人で肩を貸して立ち上がらせた。
「中島さん、僕を守ってくれて、ありがとう」
 と、鏡花はいつになく優しい声で、お礼を言った。
 中島は、黙りこくっている。
「何とか言いなよ」とでも口を挟みたそうな顔を秋声がしていたが、こちらもやはり黙っている。
 中島はほとんど鏡花たちに運ばれるようにして、覚束ない足取りで歩きながら、やがて、
「この俺が――
 とだけ、ぽつりと口にした。
 この俺が、身を挺して他人を庇うなんて。
 と、後の言葉は心の中でだけ紡いだ。
 傷を受けた背中から疼痛が全身へ広がるようだ。侵蝕の痛みは肉体の痛覚で感じるのではない、心の痛みである。その苦しさは生きる苦しみそのものだった。
 今思えば、この姿に転生したばかりの頃はさほどの苦しみでもなかったような気がする。なのに、それがこの頃はどうだ。“直す”のにだって一晩も、あるいはそれ以上さえかかる始末ではないか。
 人間であるということはこんなにも苦しい。
 そのことを、ようやく思い出したような心地がする。
(足に力が入らない――
 という自覚が先であったか、そのときにはすでに気が遠くなり始めていたものか、定かでない。
「? 中島さん?」
 と鏡花が気付き、秋声が体を支えようとしたが間に合わず、だらりと力を失った中島の重みで膝が崩れた。先を行っていた藤村も、後続の様子に気付いて足を止め、振り返った。
「中島くん、ちゃんと前、見えてる?」
 と、藤村が言ったのは、中島の半分ほど開いた目がどこかこの世でない遠いところを眺めているように見えたからだった。
 中島の返事はなかった。中島に藤村の声は届いていなかった。その視界にはすでに藤村も、秋声も、鏡花もなく、ぼんやりと全てがにじんでいる。
 その中でただ一つ、はっきりとした輪郭を持って立っている“奴”の姿を中島は行く手に見つけた。自然、中島はそれに吸い寄せられるように近付いていった。歩いても地に足が着く感覚がなくて、ふわふわしていた。その光景や感覚がおかしいとは不思議と思わなかった。
 すぐそばに立って見ると、“奴”は異常に痩せ細っていて、陰鬱な顔をしている。生命力の感じられない、生きる真似事ばかりしていた頃の“奴”の表情そのものだった。
―――
 中島は、そのとき初めて疑念を抱いた。
 その疑いを遮ろうとするように、“奴”が中島の手を取った。“奴”の骨と皮ばかりの手は氷のように冷たく、まるで血が通っていない感じがした。
 ふと、生臭い臭いが鼻をついた。生温かく淀んだプウルの水のような臭い。知らぬうちに、中島と“奴”の足元には踝が浸かるほどの水があふれ、遙か遠くまで水平線が続いている。
 “奴”に強く手を引かれ、中島は、
 ぞっ――
 と背筋が凍る思いがした。“奴”は淀んだ水面に身を投げた。中島は、どうすることもできずに水中へ引きずり込まれた。
 水中で“奴”は中島の体に絡みつき、重石となって中島を水底へといざなう。両手を中島の首に掛け、信じられないような力で締め付けてきた。
 一切の呼吸を失って、中島はようやく“奴”の――“奴”の姿に化けているそれの正体に気がついた。
 痩せ衰えた“奴”の姿形をしているそれは、自分がまだ本当の人間だった頃、おそらく最も身に迫って感じていた苦しみに違いない。
(死にたくない――!!
 という気持ち。
 浮上しなければと、中島は死に物狂いでもがいた。が、“奴”の姿をした死神はますます愛おしげに中島を抱き締めた。接吻さえした。そうして、二人ほの暗い水の中、底へ底へと沈んでいくのだった。


「医薬品の一部はこちらの棚には置いていない。勝手に持ち出す輩がいて困るのでな」
 と、鴎外が淡々と説明を続けていく後ろを、医務室の整然とした雰囲気や消毒薬の匂いと不釣り合いに派手な頭をした啄木が、少なくとも外見上は興味もなさそうについて行く。
「薬ってたとえば?」
 と啄木は尋ねた。
「主に鎮静剤、気管支拡張剤他、常用性の強い物だ。まったく、せっかくこうして得た健康な体だというのに、懲りない輩が多くて困る」
 吉川君を見習えとまでは言わんが――と鴎外はぼやき、
「それに、貧して薬剤を売りさばかれたりせぬようにな」
 と言われて、啄木はいささか気分を害したらしい。
「いくら俺だってそんなことしねーよ!」
「俺は君のことを言ったつもりはない」
―――
「それから、消毒用のアルコオルもここにはない」
「なんでですか」
「飲まれてしまっては困る」
 と鴎外が言うので、啄木もさすがにあきれた顔をしている。なんやかんやと言いつつ詳細や理由をいちいち尋ねて覚えようとしている辺り、一応やる気はあるらしい。
 鴎外が啄木を連れて次の棚の説明に移ろうとしたときだった。
 入り口のドアを叩くか細い音が聞こえた。鴎外が「入れ」と答えると、ドアを細く開けて顔を覗かせたのは島崎藤村であった。
「先生、急患」
 と、例の捉えどころのない調子で言う。鴎外は藤村をじろじろと眺め回し、
「元気そうだが、どこが悪い? 頭か?」
 と冗談なのか何なのか、愚にもつかないことをのたまう。
 藤村は別に気にした風でもなく、医務室へ入ってきて、後に続く秋声と鏡花を招き入れた。
「患者は僕じゃなくて、こっち」
 と言って、秋声が背負っている中島の体を指差す。随分重たそうに背負われている中島は、ぐったりと全身の力を失っていた。藤村に頭をつつかれても、ぴくりとも反応しない。
「有碍書に潜って、帰ってきてからずっと意識が戻らないんだよね」
「森先生――
 藤村ののんきな様子とは対照的に、鏡花は鴎外にすがるような目を向けた。
 鏡花の双眸が捕らえたときには、鴎外はすでに厳しい表情に変わっていた。
「潜書中に“体”の方に異常はなかったか?」
 藤村が答えた。
「少なくとも外傷はないよ。司書さんも特に変わったことは見当たらなかったって言ってたしね」
「よし」
 鴎外は助手の啄木の方を振り返って、
「“寝台”の準備。君は計器を起動して全ての表示を記録・報告するように」
 と指示した。
「は、はい」
 と、啄木が、まごつきながらではあるが使命を果たしに向かったのを見届けてから、鴎外は中島の体を引き受けて寝台へ寝かせ、今まで黙ってそれを背負っていた秋声を労った。
 寝台を囲む白いカーテンが引かれ、中には鴎外と啄木の二人だけが中島の体とともに残った。
 カーテンの外に伝わってくるのはいく台もの機械の歯車が回るチチチという音と、時折蒸気の漏れる音や液体の沸騰する音、鼻腔を刺すガスの臭い、かすかな洋墨の匂い、それくらいである。
 不意に、ひょいと藤村がカーテンの端をめくって中の様子を覗いた。
「治療中だ。邪魔をするな」
 と、鴎外が振り向きもせずに叱った。藤村が反省するそぶりはない。ちょっと意地の悪い口調で言った。
「“補修”中の間違いじゃなくて? 先生、それじゃ医師っていうより技師みたいだよね」
 藤村は、寝台の上の光景をまじまじと観察している。泉辺りが見たら卒倒しそうだよね、などとつぶやきながら、自分は一向平気そうである。
「手段が何であれ、人を治す者は医者だ」
 と、鴎外はにべなく言い返して取り合おうともしない。
 うつ伏せに寝かせた中島の体を挟んで向かいの啄木を呼ぶ。啄木は寝台から目をそむけて、いささか胃の悪そうな顔色だったが、鴎外の指示にはちゃんと従っていた。
 啄木が読み上げる計器の値を聞きながら、鴎外は最後の処置を終えた。
「あとは中島君の心が癒えるのを待つばかりだ」
 と、洋墨で汚れた手袋を外して、ようよう、ふううとため息を漏らす。
「体までこれほど損壊するのだから、人間の精神力とは恐ろしいものだ――
 独りごちている鴎外の背に、藤村が尋ねた。
「ねえ先生、もし裏側﹅﹅の中島くんのココが」
 言いながら自分のこめかみを人差し指でトントン叩く。
「ついにおかしくなって、現世でも目が覚めなかったんだとして、もう一人の中島くんはどうなっちゃったんだろう? 体が一つだからやっぱり一緒におかしくなっちゃったのかな。片方だけ起きたりはしないのかな?」
「俺に聞くな。中島君が目覚めたら直接聞いてみればいい」
「直るの?」
「治るさ」
「だけど」
 と、藤村は食い下がったが、鴎外は面倒くさそうに、
「治る。人間だからな。それほどヤワではない」
 と繰り返して、それ以上は藤村の相手をせず、治療用の器具や装置の片付けを始めた。


 どれほどの時間が経ったのか――
 と中島は、深く冷たい水底に横たわり、鏡のような水面を見上げながら思った。時間の感覚というものがまるきりない。ほんの数刻しか経っていない気もするし、もう何年もこうしている気もする。
 石になったように、ただただ沈んでいるばかりで何をするでもない。何かしようにも、腕に抱いた木乃伊が重くて動けないのだ。
 その木乃伊は、中島をここへ引きずり込んだあの死神だった。死神の面に貼り付けられた“奴”の顔も今は痩せ衰えきって、ついには骨と皮のみの木乃伊になってしまった。
 恐ろしくも、なんとも哀れなやつではないか。それで手を離すに忍びなく、こうして一緒に夢に沈んでやっている。
 それにここは淀んだ水と砂の他になんにもない代わりに、案外心地よく静かだ。現し世のごとく生きる苦しみだの、つらいことだのは、ここにはない。
――なんてな)
 中島は、そういった感傷的な気分を払い落とすように、
(ふん)
 と内心悪態をついた。自嘲であった。俺ともあろう者がこんな心持ちになるなんて、らしくもない。と思う。
 腕の中の木乃伊を見やる。人は皆いずれ死ぬ。死んで変わり果てた姿になる。その苦しみは確かに哀れっぽくて、こうして優しく抱いてやっているうちは大人しい。が、ひと度それから逃れようとすれば再び恐怖となって襲い掛かってくるに違いないのだ。
 命ある限りいつかは死ぬ。違いない、宿命だ。が、今はまだそのときではない。
(抗うのもさだめだと、散々言ってきたのはどこのどいつだ)
 と中島は自らを励ました。“奴”のことを想った。
(奴は今頃現世で一人目覚めて、俺がいないことになんか気がつかずに、図書館のやつらと案外楽しくやってるかもしれないな)
 中島の口元に皮肉げな笑みが浮かぶ。
(おかしな期待をするものじゃない)
 と自分を諌める。こんなのは“奴”に気付かせるまでもない。俺一人で十分片の付けられることだ。と自身に言い聞かせるように念じた。
 行くか。
 と腹を据えると、中島はいっそ勢いよく跳ね起きた。水底の魚が急に泳ぎ出したときのように、白粉の砂が高く舞い上がって周囲を煙らせる。案外、すでに深く砂に飲まれていたのだと、いささか肝が冷えた。
 煙幕に紛れて中島は水を蹴り、死神を振り切った。
 水面をにらみ上げ、腕を力いっぱい伸ばして水を掻く。遙か遠くに見えるその鏡面は、心の持ちよう次第でいっそう遠く万里の先にも、あるいは目と鼻の先にも存在することを中島は知っている。
 今にも手が届く! と強く強く念じた。
 実際、届くかに見えた。ほの暗かった水中に薄明かりが差した。水温も人肌ほどに温かくなったように思えた。が、
!!
 水底の方から伸びてきた氷のように冷たい手が中島の両脚へ絡みついて、再び暗い場所へと引きずり込もうとする。それはやはりあの木乃伊の手で、“奴”の仮面をかぶって、中島を惑わそうとするのだった。
(その顔が気に入らない――
 と、中島は木乃伊を射殺さんばかりにねめつけた。もう惑わされはしない。
(よくも奴の姿を犯してくれた!!
 中島は沈まないよう懸命にもがきながら、大きく右足を振り上げて、木乃伊を容赦なく蹴落とした。
 木乃伊の方もそれで息絶えたということはなさそうであったが、中島はともかく多少なり体が自由になった隙に、水面に辿り着いた。外界へ勢いよく頭を突き出して思い切り息を吸った。縮こまっていた肺がやっと空気をはらんでふくらみ、あばら骨を内側から押す感覚がまざまざと感じられた。
 目を開けると、そこはどこかで見覚えのある学校のプウルであった。二十五米に十米の小さなプウルであった。周囲にはずっと丸い石が敷かれていた。水はあまり澄んでいなかった。コオスの浮標はみんな上げられて、石の上に長々と伸びていた。
 ちょうど真ん中のコオスの辺りに浮かび上がった中島は、足をバタバタさせてプウルの縁へ泳ぎ着こうと急いだ。ぐずぐずしていると、またあの死神が追いすがってくるに違いない。
 木乃伊は、そんな中島の心の中のわずかな怯えさえ鋭く嗅ぎつけるようであった。
 ガクン、と中島の体が大きく水中に沈む。
「ッ!! げほっ――!!
 中島はすぐに水上へ顔を出して息をしたが、諦めの悪い木乃伊は執拗に中島の体に取り付き、よじ登ってこようとする。
 中島は、沈められそうになるのと、水面でどうにか息を吸うのとを何度も繰り返した。水面が激しく揺れ、波が立ち、水音と自分の無様な呼吸の音ばかりが耳に絶えず飛び込んで来ていた。
 そのとき、それらの不快な音の中に交じって、ともすれば掻き消されそうになるほどかすかに聞こえる声があることに中島は気がついた。
 それは獣の咆哮のように聞こえた。
 中島は水上で暴れながら、その声に必死で意識を集めた。
 突然、中島の眼底にある一つの光景が明瞭に像を結んだ。
 咆哮しているのは白い虎であった。どこか遠い遠い地の林間の道でただ一匹、月に向かって二声三声と哀しげに吠えている。つがいか、兄弟か、自分の片割れの姿を探して、それを呼ぶように叫んでいる。
 中島は思わず、
(俺はここだ――!!
 と吠え返していた。人の言葉だったのか、それとも獣の咆哮だったのか定かでない。ともかく腹の底から全身全霊の力を込めて、遠くの地を彷徨っている虎を――“奴”を呼んだ。その声が届く届かないは問題ではなかった。そうしないではいられなかったのである。
 そして中島の悲痛な咆哮は、きっと届いたのだろう。
 天を吹く風は全てを運んでくる。この広大な夢のあらゆる場所と時から、あらゆる場所と時へ。自由な心は天へ放たれ、風とともに馳せる。
 プウルにかろうじて浮いている中島の目には京城の青い空が映っていた。その一面真っ青な中に、不意にぽつりと白い点が現れたと思うや、どんどん大きくなり近付いてくるのがわかる。白い毛皮が風にゆうゆうとなびく。鋭い爪のある逞しい四肢を投げ出して地へ駆け下りてくる。
 天から降ってきた白虎は中島の眼前で赤い口を開け、四つの牙を剥き出しにした。その牙を、中島に取り付いた木乃伊に根元まで突き立てて食らいつき、派手な水しぶきを立てて自ら水中へ飛び込んだ。
 中島は咄嗟に手を伸ばして虎の前足を捕まえた。獣の足に見えていたそれは、掴んでみると、自分と同じ人間の手であった。
 中島は渾身の力で“奴”の体を引き上げんとした。ここで“奴”まで水底へ沈められては元も子もない。と肝が冷えたが、杞憂であったらしい。
 しばらくは水中で争っている様子があった。そのうち、ふっと手応えが軽くなり、底へ引きずられる力が弱くなったと思うと、
「ぷはっ!!
 と、“奴”の頭が水上へ突き出された。
「今のうちに、早くここを離れないと――
 と言って、“奴”は中島を抱えてプウルの端へ泳いで行こうとする。おまえの手を借りなくても大丈夫だ、と中島は言いたかったが声が出なかった。プウルの縁に辿り着いたときには一人で水から上がることもできなかった。そのときやっと、中島は自分がどれほど傷付き損耗していたのか悟った。
 “奴”は中島の体を石敷きのプウルサイドへ引き上げ、横たえたその脇に膝を着いて、ほっとしたような顔をしていた。
「あなたはいつも一人でいなくなるんですから。随分探しました」
 と言う。中島が何も言えないでいると、“奴”は困ったように微笑む。いつもきちんと掛けている眼鏡が、さっきの騒動で曲がってずり落ちていた。
 中島は返答の代わりに、“奴”の眼鏡を片手でそっと直してやった。“奴”は気恥ずかしそうに目をつぶってそれに甘えた。


 二人は濡れた着物を絞り、プウルサイドの木陰で身を休めた。もっとも、中島の方は体を動かせなくて、ほとんど“奴”に任せきりになっている。それにだいぶ自尊心を傷付けられたらしく、不機嫌はなはだしい。
「仕方がないじゃないですか」
 と“奴”は苦笑している。
「こんなときくらい私を頼ってくれてもいいのに」
「ふん」
「さ、肩を貸しますから掴まって――
 “奴”は中島の脇へ肩を入れて立たせると、石敷きの上を慎重に歩いて、隅の木陰へ中島を連れ込んだ。中島を仰向けに寝かせ、自分は座り込んで、膝を枕代わりに中島へ貸してやった。
 どのくらいの間だったか、二人はお互いに黙り込んでいた。それでも全く苦痛ではなかった。むしろ、言葉がなくとも、触れた肌の温度や筋肉の微細な脈動、呼吸のリズム、うつむいた目元の睫毛の震え、そういうもので絶えず語り合っていた。
 そんな中で先に言葉を発したのは、中島の方であった。
「俺は助けてほしいと言った覚えはないからな」
 などと悪態をついている。“奴”は小首をかしげた。
「もう少しで、あの木乃伊に沈められるところだったじゃないですか」
「おまえがいなくても、俺一人で片付けられたと言っているんだ」
「だけど、私だって待てど暮らせどあなたが帰ってこないから心配したんですよ。それで居ても立ってもいられなくなって」
 中島を探しに飛び出して来たのだと言う。
「虎になってか?」
 と中島が聞くと、“奴”はうなずいた。
「夢中で走っていて、気がつくとああいう格好になっているんです。あの格好のときは、全身に力がみなぎる感じがして、どこへでも行けそうな、何でも成せそうな気がするんです」
「勇猛だな」
「でもあの格好じゃ小説は書けないから、いつまでも虎のままでいたいわけじゃないですけどね」
「それはそうだ」
「あなたは、ずっとこのプウルの中にいたんですか?」
 と“奴”に問われ、中島は事の顛末を説明して聞かせた。最後まで聞いて、“奴”は、
「君とまたみるめおひせば四方の海の水の底をもかつき見てまし――
 と、ふとつぶやいた。声になるかならないかの、ほとんど息の音だけのようなつぶやきだったが、中島にはちゃんと聞こえている。なぜ“奴”が急にそんなことを言ったのかも、わかった。
「よせ」
 と顔をしかめる。
「現し世で一緒になれないからと、水底に沈んで結ばれようなんて、そんな話は真っ平だ」
「あなたも好きな鏡花さんの書いた話ですよ」
 君とまた――という、“奴”が口にした歌は元は和泉式部が詠んだものだが、鏡花はそれを題材にした『春昼』『春昼後刻』という小説を書いている。
「それとこれとは関係ない」
 と、中島は言う。
「俺は沈むなら俺一人で十分だ。おまえは来るな――足手まといになるだけだ」
 最後に付け加えた憎まれ口は本心ではなかった。
 たぶん“奴”にもばれているのだろうと中島は思う。目を見れば透けるようにわかるのだ。こちらを見下ろしている“奴”の目は無垢の金の粒のように輝き、濁りのない思慕の情に燃えていた。
 二人はそのまま視線を交わして、それによっていろいろの事を語らった。
「おまえ、恐ろしくはなかったか」
 と、中島は声に出して尋ねた。
「おまえがあの死神と一緒に水中へ沈みそうになったとき――
 “奴”は静かにかぶりを振るばかりである。何も恐ろしいことはなかったと、そう語る双眸は、中島に向けられていながら、もはや中島を見ているのではなかった。もっと遥か遠いものを見つめていた。
 “奴”は永遠を見ているのだと、中島は思った。それから、その永遠と対比された自分たちの運命をもはっきりと見ている。
(いつの間にそんな目をするようになったんだ、おまえは)
 それが中島には定かに知れず、切ない気持ちがした。
 いつかは来る、この不自然な命が終わるとき。その前に、それでも開花しようとする才気や愛情や、そうした数々の美しいものの上に、“奴”は絶えずじっと優しい眼差しを注いでいる。
 奴は宿命の日を迎えたとき、きっとその双眸から涙を流すのだろう。もしかすると、それが自分たち二人の最期でなく、他の誰かの最期であっても、奴は泣くかもしれない。そして俺は、そんなふうに人のために泣いている奴のために泣くだろう。と中島は思う。
 この半身と、心を二つに分かたれてこの世に転生したそのときから、中島の心は決まっている。あらゆる侵蝕からこの半身を守る楯となること。それが自分の務めだ。
 その代わり、日常の面倒事を奴に押しつけたりもする。
 訳もわからぬままに押しつけられた運命を、そうやって二人で生きていきたい。
(おまえがいるなら、何にだって耐えられる――
 愛の歓呼が足の先から頭の先まで貫くような心地がして、中島は両手で面を覆い、切なげな呻き声さえ上げた。
「大丈夫ですか?」
 と、“奴”が訝しんで顔色を覗き込もうとしてくる。中島は羞恥心からそれを振り払った。“奴”はいささか傷付いたようで、
「何なんですか、もう」
 と口を尖らせたが、中島が手のひらで隠しきれずにいる表情や顔色に気付くと、ぽかん、とその口を開けた。そして自分も頬を赤らめて、
―――
 言うべき言葉は見つからず、黙って、そっと両手を中島の手に重ね、中島の目元に光るものを隠す手伝いをしてやった。


 やがて二人は常の棲家に帰り、いつもとは反対に、弱っている中島の方が屋内で休息し、“奴”は庭に出ている。一緒に屋根の下にいてもよかったが、どうにも、中島が盛りのついた雄猫のような調子だったので、
「あなたは、まずちゃんと休んでください」
 と、無理やり寝かしつけて逃げ出してきた体である。
 とはいえ、一人で外にいるのも手持ち無沙汰だった。ふと地面を見やると、屋内と庭の境の辺りに、毬玉が一つ転がっている。
 それを拾い上げ、右足で、ぽんと真上に蹴り上げてみた。少々勢いをつけすぎたと見えて、御しきれなかった毬は頭の上に落ちてきた。
「あいた」
 毬は額にぶつかり、地面をころころ転げた。
(そういえば昔、学校で蹴球をしているときに、ボオルをヘディングしそこねて顔を蹴られたこともあったっけ)
 そんなことを思い出したりもする。その頃に比べて、自分はなんと遠いところへ来たものか。
(たぶん、彼がいるから、ここまで来られた――
 まだ私たちが一つのものであった頃も、一つでなくなってからも、私はいつだって一人ではなかったから。
 毬を拾い、再び蹴上げる。一、二、三、と数えながら、毬を落とさないように苦心するのだが、それでも十と続かない。四苦八苦しているのを、屋内から中島が恋しげに眺めている。
「へたくそ」
 と、あるとき、からかうような声がして、見れば中島が寝床を抜け出し庭へ出てきたところだった。
「休んでなきゃだめですよ」
 と“奴”にたしなめられたが、中島は腕白な子供のように聞く耳持たない。“奴”のそばに寄って、皮肉っぽい口調で言った。
「一人で寝ていてもつまらないからな」
「弱っている人は普通一人で寝るものだと思います」
「ふん」
「大丈夫なんですか? 具合は」
 もう随分癒えたのだと中島は返答した。
「まったく、柄にもないことをするものじゃない。鏡花のおかげでえらい目に遭った」
 と憎まれ口を叩く。だいたいおまえも甘いんだ、と“奴”にも矛先を向けた。
「おまえだろう、“俺”に鏡花を守らせたのは」
「あなたこそ、“私”に鏡花さんを守らせてくれてありがとう」
 と、“奴”は小憎らしく言い返してきた。重ねて、こうも言った。
「それに、あのときもし私が何も思わなかったとしても、きっとあなたは鏡花さんを助けていたに違いないですよ」
「ふん――
 中島は気恥ずかしそうに、ぷいとそっぽを向いた。“奴”がおかしそうに中島の脇をつついた。
 それからしばしの間、二人でじゃれ合ったり、鞠を蹴って遊んだりしてゆるゆると過ごした。
「まあしかし、そろそろ、起きるか。図書館のやつらが気を揉んでいるかもしれないしな」
 と、先に促したのは中島の方であった。
「本当にもう大丈夫なんでしょうね?」
 と“奴”は念を押してくる。中島は苦笑いをした。
「しつこいぞ」
「だって」
「うん」
「もう――
 言葉はさほど必要としなかった。目を見て、肌で触れ合って、五感の感覚でもって互いに何か伝え合うだけで、二人の間にはそれだけで十分だった。


 長い長い眠りから目覚めたとき、中島は、
(ああ、なんだかいい夢を見た――
 という心地がした。が、どんな夢だったのかは、ぼんやり目を開けたときにほとんど忘れてしまっていた。
(あなたも同じ夢を見ましたか?)
 と、まどろみながら胸中の“彼”に問いかける。常の通り、別に答えが返ってくるわけもないが、それでもいい。
 もっと眠りたいなと中島は思った。夢の続きが見たい。安楽な夢をずっと見ていたい。
 一方で、起きなければなという気持ちもある。夢は現実があるからこそ美しいんだぞと、中島をせき立てるのである。
 結局、後者の心が勝り、
「んあ――
 と、中島は間の抜けた呻き声を上げながら両手で顔をこすった。
 手を下ろして、ぱっちりと目を開けると、すぐ目の前に鏡花のやつれた顔があった。中島は、
「ひえっ!」
 と悲鳴を上げて、後ろに飛び退こうとして医務用の寝台の背に派手に頭をぶつけた。
 中島が頭を抱えて痛がっているのを、鏡花は目を丸くして、物も言わずにまじまじと見つめていた。が、そのうち我に返ったらしく、
「も、森先生! 森先生――!」
 あわわ、と寝台脇の腰掛けを蹴って立ち上がり、そのまま鴎外を呼びに白いカーテンの外へ飛び出して行った。
 中島が枕元に置いてあった眼鏡を見つけ、それを掛けてやっと辺りを見回すと、そこは見慣れた帝國図書館の医務室であった。有碍書に潜書していた間の記憶は例によってあいまいで、よく覚えていないが、たぶん随分侵蝕されて治療を施されたのであろうことは想像がつく。
(だけど、どうして鏡花さんがこんなところにいたんだろう?)
 寝台の足元に転げた腰掛けを拾い起こし、首を捻っていると、カーテンの外で足音がいく重にも聞こえた。先頭で病室に入ってきたのは、白衣の鴎外で、
「よく眠れたかね、中島君」
 と、さりげない口調で気遣ってくれる。鴎外は懐から時計を出して、
「今、朝の七時だ。丸一晩眠っていたぞ、君は」
「はあ、人並みに寝ていたんですね」
「左様、人並みであるということは素晴らしい。特に我々にとってはな」
 鴎外の後に続いて、秋声と藤村が順にカーテンをめくって顔を覗かせた。
「おはよう」
 と、秋声は挨拶こそしてくれたが、なぜか少々嫉妬のこもった調子で、
「ねえ、中島くん、君はどっちの方? 倫敦のドンの方?」
 と、藤村は相変わらずよくわからない。
「お、おはようございます。あの、いつも倫敦のドンの方しかいませんが――
 中島が律儀に返事をすると、鴎外が「今は真面目に相手をしなくてよろしい」と言って、秋声と藤村をカーテンの外に押し出してしまった。
「中島君、察しているとは思うが、君は潜書中に倒れてここへ担ぎ込まれたのだ。念のため、起き出す前に診察は受けてもらおう」
「は、はい――
「それから、泉君にお礼を言い給え。昨晩中ずっと君のそばについて、様子を見ていてくれたのは彼だ」
「あの、そのことなんですが、どうして鏡花さんが私なんかにそこまでしてくださったんでしょう」
 すみません、昨日のことはよく覚えていないんです。と中島は恥ずかしそうに首の後ろを掻いている。
「君が倒れたのは身を挺して泉君を庇ったからだと、俺は聞いている」
 と鴎外に事情を知らされて、中島は目を見張った。
 鴎外は、カルテを取ってくるからと言って、一度カーテンの外へ出て行った。それと入れ違いに入ってきた人物があった。中島は、見開いていた金色の目をさらに大きくした。入ってきたのは鏡花であった。
 鏡花は、さっき取り乱したところを見せたのを照れているらしい。この男らしからぬ歯切れの悪い口調で、
「中島さん、ええと、お加減はいかがですか」
 と尋ねてきた。中島は中島ですっかり恐縮してしまって、いつも以上にどもってしまい、恥ずかしくて顔を上げられないでいる。
 鏡花は、少々逡巡してから、元座っていた腰掛けを引いてそれに腰を下ろし、中島と目の高さを揃えた。
「中島さん、僕のせいであなたを苦しい目に遭わせてしまったこと、いくらお詫びしてもしきれません」
「えっ、いえ、そ、そんな、鏡花さんが気になさることは――私が、勝手にしたことなんですから――
「中島さん」
 鏡花は、静かに中島の名前を呼んだ。そしてだいぶ長い間ためらったのちに、両手にいつもはめている手袋を片方ずつ脱ぎ捨てた。
 寝台に起き上がった中島が毛布の上に置いていた手に、鏡花の真っ白な手が、右、左と重ねられた。
 中島は飛び上がらんばかりに驚いた。
「鏡花さん! よ、汚れますよ――!?
 鏡花はかぶりを振り、
「ありがとう」
 と、ひどく優しい声で言ってくれた。
 鏡花の手のひんやりとした温度と、柔和な楽の音のような声が、中島の胸に、長らく忘れていた激しい感情の火種を熾す。
 それはよくある言葉で言えば、自信、矜持、誇り、そういうものであったが、中島にとってはもう少し複雑な気持ちだった。
(私は愛されているのだ)
 そういう実感を伴った気持ち。目の前にいる鏡花だけでなく、鴎外や藤村や秋声のように自分を気にかけてくれた人たちや、友人の吉川や乱歩、仲間の文人たち、図書館で働く人々、さまざまな人の顔が心に浮かんで、焼き付いた。
 また、
(私は人を愛しているのだ)
 という、彼らを大切に思う気持ち。そして、それと同じくらい、
(私は“私”を、“彼”を、中島敦﹅﹅﹅を愛している)
 と思うのである。
 ふいに、中島の頬を熱い涙がぽろりと一粒伝った。それを、慌てて手のひらで拭って隠す。中島は、そんな自分の姿を、ついさっき夢の中で見たような気がしてならなかった。

(了)