禁煙

 僕はこのひとが嫌いなはずなのだけれど――
 と思って、膝の上にちょこんと乗せられた巻き毛の頭を見下ろす。頭は浅く眠っているらしく、規則的に繰り返される細い寝息が膝にかかる。
 懐から煙草の箱を取り出さんとして、
(ああ、医務室は禁煙)
 と思い出す。吸えないとなると、余計に欲しくなる。唇がむずむずする。どうにも、落ち着かない心持ちである。
 この膝の上の頭がよくないのだ。膝にかかる息がよくないのだ。
 気の休まらない思いで、芥川は島崎に膝を貸しながら補修の番が回ってくるのを待つ。医務室の片隅で、頼りない古ぼけた長椅子に座って、隣には心神喪失しきった島崎藤村がいて、その巻き毛の頭は芥川の膝に預けられている。
 不意の出来事だったのだ。
「ごめん……」
 と弱々しく呟いた島崎が芥川の方へ倒れ込んできたのは。芥川にしてみれば迷惑千万――であったが、押し返すのもなんだか憐れで、それで、仕方なくこうしている。
(こんなひとに、何を謝ることがあるのだか)
 と芥川は思った。僕に謝ったのじゃないことはわかっている、と思った。では誰に、と考えても見当もつかない。ついてたまるものかという気もする。
「嫌いだよ――
 と独りごちて目をつぶる。消耗した精神はやがて眠気を兆してきた。
「芥川君」
 と鴎外に呼ばれて目を覚ましたとき、芥川は一人であった。島崎は先に補修用の寝台へ移ったらしい。
 芥川も鴎外に促されて寝台へ入った。周りには白いカーテンを引かれた。さっきうとうとしたせいか寝付けず、暇つぶしに鏡花の歌行灯の文庫を読んでいた。
 ふと、カーテンの隙間から人影が覗いた。芥川はてっきり鴎外が様子を見に来たのかと思い、
「どうぞ」
 と招き入れた。が、入ってきたのは予想外に一足早く補修を終えたらしい島崎であった。島崎は平時通り掴みどころのない調子に戻っていた。
「君の方から招き入れてくれるとは思わなかったよ」
――出て行ってくれないか」
 相手が島崎とわかると、芥川は冷たい口調になった。
「入れと言ったり、出て行けと言ったり、一貫性がないね」
「君だとは思わなかったからだ」
「なるほど」
「用がないなら出て行ってくれ」
「用はあるよ……取材がしたいな」
「他に言うことを知らないのかい、君は」
 別に何を言ってほしかったというわけでもないが――こういうひとだ。やはり先刻の言葉は僕に謝ったのじゃない。と芥川はつくづく思った。
 島崎は存外素直に引き下がって、カーテンの外へ出て行った。去り際、
「さっきは、ありがとね」
 と何気ない風に言った。芥川は、ぎょっと目を剥いた。
「貸してくれたじゃない」
―――
「膝」
 芥川は島崎の後ろ姿を見送って、見えなくなると、ぼんやりと天井を仰ぐ。別に、そんな言葉が欲しかったわけでもない――別に、別に――と思おうとするのだが、どうしても嫌な気がせず、己の心が翻弄されているのを自覚して落ち着かなかった。
(煙草が欲しい――
 医務室は、禁煙なのであった。

(了)