標本たちの幻想

「おやおや、こぉんなところで会うとは奇遇ですね、中島さん」
 と、背後から、いやぁな、例の芝居がかった声を掛けられて、中島はギクリと足を止めた。聞こえなかった振りをしてさっさと行ってしまえばいいのだが、元来の外聞を気にする性分がそうさせてくれないのが悲しい。
 中島が振り返ると、手入れの行き届いた帝國図書館の敷地の風景がまず目に飛び込んでくる。常緑の庭園に建てられたいくつもの洋館。ヴィクトリア朝倫敦を思わせる、たくさんのアーチ窓が整然と並ぶ瀟洒な舘の壁面に、所々浮き出した動脈のごとく這う蒸気管や毛細血管のような黒い電線がグロテスクなようでもあり、しかしどこか懐かしい風でもある。
 そういった建物の群れを、緑の庭園に植えられた季節の花々が飾り立てるのである。特に庭の大きな人工池に植えられた古代蓮が見事で、夏になれば大輪の花をいくつも付ける。
 その蓮池を背に背負って、黒マントの江戸川乱歩がにこにこと笑いながらこちらを見ていた。
 乱歩の立つ小道は池の縁に沿って深く曲がって、中島のいる中央通りへつながっている。その中央通りは図書館の本館へ到る。乱歩は足早に中島の方へ近寄ってきた。
「中島さんも図書館にご用ですか」
 と、乱歩は中島に並んで歩きながら言った。中島はうつむいたままで返事をした。
「え、ええ、まあ、少し所用があるものですから――あの」
ワタクシはお遣いから帰ったところですよ」
 と、乱歩は先んじて言った。司書に頼まれて品物を受け取りに行ったのだと言い、マントの下で抱えていた古風な風呂敷包みを、ちらりと覗かせて中島に見せた。
 黒繻子の風呂敷で包まれたそれは、大きさは三、四十センチ四方で、平べったかった。
「中を見たいですか?」
 と乱歩に聞かれたが、中島は、
「いえ、わ、私は、別に――
 おどおどとかぶりを振るばかりである。全く気にならない、と言えば嘘であった。その包みの中身を知りたい気持ちはあるのだが、素直にそうと言えない。子供じみた好奇心を他人に気取られるのが恥ずかしかった。
「人の物を、私が勝手に見せてもらうわけにはいきませんから」
 そんな形ばかり大人ぶったセリフが口をついて出てしまう。
「そうですか」
 と、乱歩は案外あっさりと引き下がった。
 二人はしばし黙り合ったままで歩いた。乱歩は脇の蓮池を見ていた。
「蓮の花は泥水の中からしか咲かないのです」
 不意にそんなことをつぶやく。
「え――?」
 と中島が怪訝そうな顔をすると、乱歩はにこりと笑顔を作って言った。
「一蓮托生という言葉があるでしょう。人は転生して蓮の花の上に再び生を受けるのです。その美しい蓮の花は泥水の中でなくては育たない――ところで転生といえば、中島さん、貴方アナタの小説にもそれを題材にしたものがありましたね。『木乃伊』という題の」
「えっ? は、はあ、そうですが」
 話題をころころと変える乱歩に中島は戸惑うのだが、とりあえず話を合わせてしまうのが我ながら情けないと思うのだった。
 乱歩はそんな中島の心境を知ってか知らずか、好き勝手に喋っている。
「あのお話などは私はとてもよいものだと思いました。私はやはりああいった幻想趣味の世界が心地よいものでして。主人公パリスカスの謎をとくところはいささか探偵的だとも感じました」
「お、お気に召したのなら何よりでした。ありがとうございます、私の小説を読んでくださって――
「それから『虎狩』などの少年時代のお話も」
「あれらは、別段幻想的とは言えないかと思いますが」
「いえまあそうなんですがね。美しき少年時代の思い出というのは、なんとも、尊い」
「はあ、そういうものでしょうか」
 とあいまいな返事をしながら、中島は物憂げな顔をしている。自作を褒められるのは嬉しい。嬉しいが、同時に卑小な喜びにくすぐられる自分の心を持て余してしまう。
 それに、褒めてもらった以上何か返礼をしなくては外聞が悪いのでは――という心配もある。
 中島は、なんとか言葉をひねり出そうとしてもじもじしている。
「え、ええと、乱歩さん、私」
「はい」
「私も、あの、乱歩さんの作品を拝見したのですが」
「私の書くような通俗小説の類は、純文学を志す中島さんのお口には合わないでしょう」
 と、乱歩はずばり言う。中島も、まあ半分図星で、さらにもじもじしてうつむいてしまう。乱歩は何か懐かしいものでも見るような目で、そんな中島を眺めていた。
 中島はどもりながらようよう言った。
「いえその、わ、私も幻想的な物語は好きなものですから、乱歩さんの、たとえば『押絵と旅する男』などは、こう――
「ああ、あれですか」
 と乱歩は、それでも嬉しそうな顔をして、
「私にもいっとき全く書けなくなった時期がありまして、あれはそういう時分に書いた話が元なのです。それも最初は破り捨ててしまって、友人の編集者で後に作家になった横溝君という人に大層怒られたものです」
「乱歩さんにも不調などというものがあるんですね」
「私もこう見えて人間ですのでねぇ」
 と乱歩は苦笑いをする。
「あの話は、後で書き直してみると、私自身としてもさほど悪いとは思いませんでした」
 と、乱歩にしては、自作に満足しているような旨のことを言う。
 中島はふと気になったことがあり、乱歩へ尋ねた。
「あの物語に、乱歩さんは誰として登場しているんですか?」
「中島さん、世の小説家というものの皆が皆、自作に自分の姿を映しているわけではないのですよ」
―――
「しかしまあ、そうですね、あえて言うのであれば――私こそ狂人であったに違いないでのでしょう」
「それは、つまり、押絵と旅している男のことですか?」
「そう。このように風呂敷包みの額を抱えてあちこち旅しているおかしな男――
 と、乱歩は役者じみた声で言いながら、足を止め、マントの下から扁平な黒繻子の包みの角をちらと覗かせた。
 それにつられて中島も立ち止まる。
 ぞくり、
 と、背に小さな芋虫が這ったような怖気を覚えた。両方の腕の肌に粟粒が立つ。顔色もいささか血の気が引いた。乱歩はその中島の様子を注意深く見ながら、さらに言った。
これ﹅﹅の中を見てみたいのじゃありませんか? 本当は」
「そ、それ、もしかして絵の額なんですか?」
「中島さん、質問にはイエスかノーかで答えるものです。見たいか、見たくないか、まずはそれを聞かせてもらいましょう――中島さんなら、きっと、これを見て、話を聞きたくなるに違いないと私は信じていますがね」
 ちょっと凄みさえ感じさせる乱歩の口調に引き込まれて、中島はその風呂敷包みから目を離せなくなってしまった。現実から、鮮やかに着色された白昼夢に、いきなり足首を掴まれて引きずり込まれたような、奇妙な感じ――
 恍惚とするような恐怖が下腹の辺りからこみ上げてきて、中島は思わず乱歩から逃げるように一歩後ずさりした。
「何を恐れているのです」
 と、乱歩は踏み込んでくる。中島の心の底まで見透かそうとするような物言いをする。
「パリスカスのように、押絵の男のように、幻想に飲み込まれてしまうのが恐ろしいのですか? その恐怖の先に阿片の愉楽のごときものがあるとは思いませんか? 今自分が見ているものは真に現実なのか、それとも闇夜にはねを休めている蝶の見る夢なのか、確かめてみたいとは思いませんか?」
「す、すみません、だめ、だめです、やっぱり私は――
 中島は哀れなくらいうろたえて、その場を逃げ出そうとした。きびすを返し、乱歩を――というよりは、乱歩の連れている白昼夢の気配を振り切ろうと早足に歩きだした。
 まさにそのとき、
「ああっ、中島さん足元、段差がありますよそこ」
 と、乱歩が急に気の抜けるような生声を挟んだ。さっきまでの芝居調ではない、どこにでもいる青年の声になっていた。
 それで中島は、ぎくり、と自分の靴の先に視線を落としたのだが、そのときにはもう遅い。道の石畳が一部古くなって抜け落ちていた。中島はすでにその穴へ爪先を突っ込んでいる。
「わっ」
 と、為す術なく蹴つまずいた。
 が、転びはしなかった。
「っと!」
 と背後から咄嗟に両手を伸ばした乱歩が、中島の肩を掴まえて支えてくれたおかげだった。
 乱歩は中島の顔を覗き込んで、小首をかしげた。
「大丈夫ですか?」
―――
 中島は、夢から覚めたような心地で、乱歩の顔を見上げた。見つめ合って、乱歩は何を勘違いしたのか、すまなそうに眉をひそめた。
「ごめんなさい、中島さんを脅かすつもりはなかったのですが。夢と現の話はそんなに恐ろしかったでしょうか」
 中島はすっかり恥ずかしくなって、真赤に染まった頬を真下へ向け、まごまごしてはっきり物も言えない。すると乱歩は苦笑して、
「いやですねぇ、こんな格好を人に見られたらどんな誤解を受けるかわかりませんよ」
 などと愚にもつかぬ冗談を言うものだから、中島はますます恥じ入ってしまう。
 乱歩はといえば困っている。
「今のは冗談ですよ」
 とわざわざ言って聞かせてやったほどである。
「ほんの冗談なんです。なぜって、貴方はいくら可憐だとはいえ、もう、大人の男性ですからねぇ」
「ど、どどどういう意味でしょうかそれは――
 と、中島が、赤くなりながらもようやく口を開けて合いの手を入れてくれたので、乱歩も安心したらしい。「さてね」とうそぶいた口調はいつもの芝居がかった調子に戻っていた。
 乱歩は中島から離れると、マントの裾をばさりと背中へ払い上げて、地面にしゃがみ込んだ。さっきまで抱えていた風呂敷包みが道の上に落ちている。中島を助けたとき、両手を離してしまったのだ。
 乱歩は落ち着いた様子で包みをほどいた。中島の方が却って慌てている。
「あっ、わ、私のせいで大事な絵が」
「いえいえ、貴方を助けたのは私の勝手です。まあ壊れたような音もしませんでしたし、それにこれは実のところ絵の額ではないのです」
 風呂敷を外してしまうと、出てきたのは木製の大きな標本箱であった。
「ね――標本なんです、蝶々の」
 と乱歩は中島に箱の中身を示した。大小、色、とりどりの揚羽蝶が整然と並べられ、その一つ一つに学名を記した札を付けてある。それを覆うガラス蓋は幸いに無傷で、青白く透き通って、標本たちと外界とを隔てている。
 中島も乱歩の脇に身を屈めて、美しい蝶々に見入った。
「そういえば――乱歩さんお遣いだって仰ってましたっけ。司書さんに頼まれた品だって――
 と思い出し、どうして自分はさっきこれを押絵の額と取り違えたのか、なんだか馬鹿馬鹿しい気がしてきた。
 乱歩がうなずく。
「ええ、そう、あの方に頼まれたお遣いなのです。こんなものを蒐集して身の回りに飾りたがるなんて、いかにもあの方らしいじゃありませんか」
「?」
「我々のようなものをひとところに集めて暮らしているあの方が、定めし喜びそうなものだということですよ」
 と、乱歩はどことなく意地の悪い物言いをしながら、標本箱を開けた。箱自体に傷はないが、中の蝶が一つ崩れているのを見つけた。左下の隅の、青い筋の入った小さな揚羽の片翅が痛々しいほど歪んでしまっていた。
 乱歩はそれを虫ピンごとそっと摘み上げ、学名の札も剥がして手のひらへ乗せた。
 中島が首をひねって乱歩の顔を見る。
「どうするんですか? それ」
「これは私が頂きましょう」
「し、司書さんに怒られませんか?」
「なぁに、こうしておけばわかりやしません」
 と標本箱の方は、空白になった部分の周りの標本の位置を適当にずらしてごまかした。
 案外いい加減だなぁ、とでも言いたげな目つきをしている中島の目の前で、乱歩は上着の懐からハンカチを取り出し、それで壊れた揚羽蝶を丁寧にくるむと、優しく、至極慎重に元の内ポケットへ戻した。
 標本箱に蓋をして、黒い風呂敷できれいに包み直し、何食わぬ顔でそれをマントの下に抱える。
 中島と乱歩は改めて肩を並べ、図書館へ向かって歩きだした。
「乱歩さんは蝶がお好きなんですね」
 と中島が言う。何気なく出た言葉だったが、乱歩になんとも言えない顔をさせた。
「中島さん、我々の正体は儚い一匹の蝶のようなもので、この世界はその蝶の見ている夢にすぎないのかもしれないと、中島さんは考えたことはありませんか?」
「胡蝶の夢ですか? 荘子ですね、それは」
 と、中島は漢学によく通じた作家らしく、すぐに乱歩の言いたいことを飲み込んだ。
「私なんかは、蝶なんて綺麗なものじゃなく、ひ弱な蛾がせいぜいといったところだと思っていますけど」
「蝶と蛾に明確な区別はないのですよ」
「あれ、そうなんですか?」
「昆虫学からすればそうなのです」
 乱歩はそこで一旦言葉を切り、しばし物思いに沈んだ。その間中島が黙っていてくれたので、たっぷり考えることができた。
「我々の書いたものなど、蝶の落としたかすかな鱗粉のようなものかもしれません」
 と、やっと口を開いたと思ったらそんなことを言う。マントの裾から、手袋をしていない左手を出して、指先を中島へ向けた。人差し指に緑色に光る粉が少々まとわりついていた。
「ですがその鱗粉が人の手に残って、感慨を残すこともあるわけでして。たとえば中島さんの『木乃伊』が私の心に残ったように」
――ありがとうございます」
 と、中島は不思議と素直な気持ちになって、お礼を言っていた。
 乱歩は相変わらずの役者調だったが、それが中島には存外好ましく感じられる。
「わずかな生を羽ばたいて鱗粉を落とすことに費やした挙句、こんな姿にされてしまうんですから」
 と言って、乱歩は手のひらで自分の左胸を押さえた。ちょうどその辺りに、さっき蝶の標本をしまった内ポケットがあるはずだった。
「だからこそ――
「だからこそ?」
 中島が問うと、
「愛しいのです」
 と乱歩は答えた。そして、少し恥ずかしそうに苦笑した。

(了)